黄金週間の諸々:押し売りお断りと、コンヴィチュニーの「マクベス」のお掃除おばちゃん大活躍(と少しだけ「歌う国民」)

書くタイミングを失したので無理矢理ここにメモしておきますが、ゴールデンウィーク序盤に、大阪の市長さんが憲法96条改正に躊躇するのは「国民投票否定」であり、国民を信頼していないことになる、と連呼しておりましたが、残念ながらそうじゃなくて、あれは、そんなことばっかりギャーギャーがなり立てる「政治家としてのあなた」を信頼していない人がいる、ということに過ぎない。世間はそういうものなんで、そこに噛みついても話は前に進まない。(時間を先へ進めたくない、追い風が吹いていた頃に戻りたいのかなあ……。)

押し売りさんが連日玄関先にやってきて、他の業者がいかにダメか、大きな声でまくしたてたとしたら、それは問答無用に鬱陶しい。どの商品を買うか、そのくらいは自分で判断できるし、あなたにとやかく言われる筋合いはないので、とっととお帰りいただきたい、と。

(彼は学生時代にジーンズ販売を起業して失敗したらしいのだけれど、ひょっとすると今回同様、エゴとガッツが空回りしたんじゃないだろうか。この人、商売に向いてないと思う。)

ということで、本題は5/4,5に見てきた二期会の「マクベス」についてです。

[まっとうな論評は鈴木淳史さんの書いていらっしゃることに尽きると思うので、そちらをどうぞ。http://suzukiatsufmi.blogspot.jp/2013/05/blog-post.html コンヴィチュニーが楽譜/音楽の裏付けのないことは決してやらない、というのはその通りだと思うし、だからコアな音楽ファンがこの人を別格で認めるのだと思う。]

1. 政治劇の舞台裏

東京のカンパニーのことに首をつっこむのはどうかと遠慮して、そのうち誰かが言うかな、と思っていたのですが、そういう気配がないので感想を書きますが、

あの「魔女」のみなさんって、要するに、今時の立派なビルには必ずいる「現業さん」、いわゆる、お掃除おばちゃん、ですよね。

わたくしあの舞台をみて、真っ先に憂歌団を思ったです(笑)。♪かわいいパンティ、履いてみたい、きれいなフリルのついたやつ♪ そのまんまじゃないですか!

日本だったら地味な制服で、トイレの掃除とか、電球の交換とか、備品の搬入とかをやってくださっている方々が、ドイツでは思い思いの私服で仕事をしているに違いなく、デスクワークの人たちにとっては透明人間みたいな存在だけれど、あの人たちは、そのビルに入っている会社や官庁の隅々まで実によく知っている。(なんか、そんな設定で財前直見がヒロインを演じる二時間ドラマのシリーズがありませんでしたっけ?)

劇場だってそうで、東京文化会館も、その日の公演が終わって、職員さんやスタッフさんが帰ってから、ロビーや客席をお掃除してくださる人がいるはず。演出ノートにコンヴィチュニーが「わたしは魔女の側の人間です」と書いていましたが、それはつまり、お掃除おばちゃんも「わたしたち」劇場チームのメンバーだ、という風に受け取ればいいんじゃないかと思いました。(彼もひょっとしたら、下積み時代にそんなお掃除おばちゃんの世話になったことがあったんだったりして。)そして今回は、最後に狂乱を演じるプリマドンナさん、達者なバリトンさんと同列に、お掃除おばちゃんの皆様が主役である、と。

あのおばちゃんたちは、控え室のラジオで、「まあ、結末はこんなもんかねえ」と言いながら終演を確認して、舞台へ繰り出し、幕が降りてカーテンコールも終わってから、てきぱきと後片付けをしたに違いない。

「バックステージもの」ですね。

2. 「マクベス」と「魔弾の射手」

最近のコンヴィチュニーの演出には既視感がある、と言われるらしく、なるほどそうかも、と思いますが、それを言うとしたら、悪魔や魔女こそが最も日常的な存在だ、というのはハンブルクでやった「魔弾の射手」と一緒ですよね。ドラマの大枠が一緒なので、以前見たものと似てくるのはしょうがないかもしれない。

しかも、そう思って見ていると、「マクベス」のそれまでのヴェルディになかったカラフルなオーケストラは、彼がロマンティック・オペラに挑戦した、ということなわけだから、「魔弾の射手」を直接参照したとは思えませんが、イタリアでもロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティの時代に北方ゴシックものが流行って、その語彙を使ったのは確かでしょうし、「マクベス」と「魔弾の射手」を似た構図で演出するのは、隔世遺伝を可視化したようなもので、理にかなっているかもしれません。

前奏曲がシリアスで、幕が開くとケタケタと笑う合唱が観客をツカむ、というのは「魔弾の射手」で開幕早々に笑いの合唱があるのを思わせるし、休憩前2幕のフィナーレで大地が割れて亡霊が出てくるところは、真夜中の狼谷(こちらも2幕のフィナーレ)と同じだなあ、と思いながら見ておりました。

(しかしあそこで、観客に「どこまで脱ぐんだこの人は」と思わせて(マクベス夫人は最初の登場でベッドの上で「早く来て〜」とか歌わせるあたりからして、満たされない女性なのでしょうね、だから露出狂っぽいことをしたり、後半では軍服でコスプレしたりもする)、彼女が手前に出てきてノリノリ・アゲアゲなところに視線を集めておいて、あらぬ場所、舞台後方で大地が割れる事件を起こす呼吸は、舞台演出の常套手段かもしれませんが効果的でしたね。彼女(と観客)は、まさに「浮き足立っていた」わけで。)

それに、内向的でオドオドした男性主人公というのは、マックスがそうであるようにロマン派のメルヘンの定番で、文学史では、ドイツやフランスのロマンチストがシェークスピアをロマン主義の先駆者として「発見」したとされるようですし、ベルリオーズは「ハムレットは私だ」と思いこんで英国のオフィーリア女優に恋をした。(「幻想」の続編の「レリオ」では、直接ハムレットが言及される。)

お掃除おばちゃんは、同時に、「なにうわついたことばっかり言ってるんだろうねえ、この人たちは」と、そういう文学青年のために三度の食事を用意する下宿のおばちゃん、定食屋のおかみさん風でもあると言えそうな気がします。(これも青春ドラマにありがちなキャラ設定。)

あと、ヴェルディは変な人で、冴えない牧師とかせむしの男とか娼婦とか、美しくない人物を舞台の中央に据えたい欲望を持っていたような気がします(ロマン主義のグロテスク趣味と自然主義リアリズムの中間みたいな感じがする)。晩年の2つのシェークスピアものは、ムーア人の将軍とふとっちょのファルスタッフで、そういう欲望が全開していますし、最初のシェークスピアものである「マクベス」でお掃除おばちゃんを大活躍させるのは、ヴェルディのシェークスピアものに伏流する欲望をうまく汲みあげた演出と言えるのかもしれませんね。

3. 「歌う国民」 - 「マクベス」を2013年に東京で上演する意味

ただし、そう考えると「魔弾の射手」との違いもはっきりしてきて、このおばちゃんたちは、「魔弾」の敏腕ビジネスマンな悪魔ザミュエルみたいに手下を使って村人を搾取するのではなくて(=90年代のコンヴィチュニーは戦闘モードで演出していた)、役者たちが舞台上を散らかしたのを、しょうがないねえ、という風情で「後片付け」するんですよね。

しかも、その手際は感動的に無駄がない。

殺し屋の待ち受ける墓地があっという間にパーティ会場になるし、最後は、回り舞台一面に広がった樹木を手際よく一列に並べ直すし、オーケストラは、有能な舞台転換スタッフとして「魔女」を雇うべきかもしれない。主役の2人は「歌」をたっぷり聴かせるけれど、第3の主役であるお掃除おばちゃんは、スタッフワークを見せつけるわけですね。

最後は、壮大なフィナーレを小さなラジオに手際よく詰め込んでしまうところまで行くのですから、彼女たちはとんでもない「収納名人」! 音楽に手を加えるのはケシカラン、と文句を言う「正論」は、子供部屋(=ボクたちの聖域)を片づけられてオカアチャンにブウブウ不平を言う子供のような位置へ押しこめられてしまう。異化的な演出技法としては既視感があるけれど、お掃除おばちゃんの視点を発見したことで、ビシッと文句を言わせない形に手法がパワーアップしているように思います。

(コンヴィチュニーの演出は、演劇とか独文の方が論じると文字のびっしり詰まった「深読み」が展開されてしまうわけですけれど、常に舞台上の人物配置や構図がすっきりして、視覚的に絵が締まって、聡明で育ちが良い感じがする(決して貧乏くさくならない)ということは、誰かがちゃんと言って欲しい気がします。今回は特にそれを感じた。王様の宙づりは、脇に三脚があるのがいいんだ、とか。物事をすっきり「お片付け」するのは、彼の気質でもあるんじゃないかと思います。)

で、主役の二人がマシンガンぶちかまして、あたりが死体の山になったあと、長い沈黙があり、うっすらと客電が灯いて、「虐げられた祖国」の合唱から「木を植えよう」のくだりは、やっぱりこれはもう、どんなにベタでも、合唱で当たりを取って世に出たヴェルディにとっては二番煎じ三番煎じ四番煎じで入れないと客が承知しないから仕方なくこのパターンで書いたのかもしれないにしても、号泣するシーンだと思いました(というか、2度見て2度とも私は泣いた)。今回「マクベス」をやる(日本側がこれを買うことにした)のが二期会の提案なのか、コンヴィチュニーの提案なのか、知りませんが、東京の舞台でこういうことをやる、というのは、偶然ではあり得ないですよね。3.11だ、あのコントロールタワーのような部屋の窓から見える風景は福島かもしれないのだ、と。

ベートーヴェンの『第九交響曲』―“国歌”の政治史

ベートーヴェンの『第九交響曲』―“国歌”の政治史

「歌う国民」という言葉は、東大教授が紫綬褒章をゲットする身過ぎ世過ぎのためでなく、ああいう場面で使って欲しい。

もちろんこういうことは、ドイツからやって来た演出家に言われる筋合いのことではなく、それを大阪から連休に浮かれてやってきたオノボリサンが有り難がったところで、事態はまったく上滑りしてしまっているわけですけれども……。

4. 東京二期会の品揃えの凄み

たぶん、お掃除おばちゃん大活躍の「マクベス」をあれから2年経った今も東北でたくさんの人たちがなんとかしようと頑張っている国の首都でやる、という絵が描けた段階で、演出家としてはガッツポーズなんだろうと思います。戦闘モードで見えない壁を壊す演出ではなく、バラバラになったものを人知れず後片付けする姿を見せる演出というのも、ひょっとしたらこれは、目新しいことで度肝を抜く20世紀的な舞台(ディアギレフ的なアヴァンギャルドとかブレヒト的な異化効果以来の)とは違う21世紀のヴィジョンかもしれないし、もしかするとこのあたりから、「後期コンヴィチュニー様式」みたいな展開があるのかもしれない、とヤマカンで言ってみたりもしたくなってしまいます。(仕事の評論だったら、そんな感じのオチをつけるかもしれない。)

でも、会場でいただいたチラシを眺めていると、二期会さんは、どうにか年間に2つずつ本公演をやっている関西の団体とは違ってたくさんの公演を手がけていて、内容はヴァラエティに富んでいて、これは、あくまでそのなかのひとつ、みたいですね。

年度やシーズンの区切りがどこなのかよくわかりませんが、1月には関西風味のお笑いということなのか大植英次を招いて「こうもり」をやって、夏にはブラッソンの「ホフマン物語」があって、秋にはびわ湖ホールと共同の「ワルキューレ」があって、そのあと、日生劇場でライマンの「リア」があって……。3月のびわ湖の「椿姫」も神奈川のホールとの共催だから、こちらでやったんですよね。

演出や指揮者は確実に話題になりそうな人選で、「買い物上手」な事業展開なんだなあ、とスケジュールを見るだけで感心してしまいました。新宿の伊勢丹は、入っているテナントがよそとは全然違うんだよ、みたいな感じ。民間企業の鑑、と感じ入りました。こんなことになっていたのか、びわ湖の公演は、こういうサイクルのなかへ組み込まれているんだったら、ちゃんとそのことを知っておかないといけないよなあ、と思いました。

(ヴェルディの日本初演はびわ湖ホールだけでしかやらないから、みんな見に来い、とやっていた若杉時代とは、枠組みが様変わりしてるんですね。海外劇場からの買い付けもあるわけですから、まさにグローバリズム。)

5. 民間のオペラと公立劇場のオペラ

ただ、それでふと思ったのですが、コンヴィチュニーが普段仕事をしているところ(二期会などから見れば提携先でもある)は、ほぼ全部、公立劇場ですよね。(国内のびわ湖や神奈川も。……そういえば、10年くらい前にクレーマー演出の竹林の「ばらの騎士」を関西二期会と提携してやったことがあったけれど、あれは一度きりで終わってしまった。東京二期会は、国内の他のプライヴェート・カンパニーとは話の合わない独自の存在(国民経済の枠を飛び出した多国籍企業風の)になりつつあるのでしょうか……。)

コンヴィチュニーや、彼が旗頭だと目されている「読み替え」演出(最近はこの言葉を嫌って「ムジークテアター」と言われることもある)は、公立劇場に渦巻く色々な力学のなかでああいうところへ着地している面が絶対あると思うんですよね。かつてハプスブルクの皇帝の持ち物だった劇場だから、シュターツオーパーの「ドン・カルロス」のロビーにスペイン国王が到着する仕掛けに「してやったり感」が生まれるんだと思います。アングラ劇団が広場にテント張って反体制をやってるのではないんだ、と(それが悪い、と言ってるわけではないですが)。

プライヴェート・カンパニーの品揃えのひとつとして出来合いのプロダクションを再演したり、県立劇場が空いている期間に自主講座としてワークショップをやる(主催者側の枠組みはともかく、参加する側のノリは名物顧問がいる学校の課外クラブ活動っぽい感じになる)というのだと、やっぱり、意味が変わると思うんです。

カンパニーや劇場の側が十分以上に「やる意義」を見いだしているのはわかるし、それを否定するつもりは毛頭ないけれど、結局そういう枠内でやっているかぎり、大げさな言い方ですが、日本という国の統治機構は本気では作動しないし、コンヴィチュニーがどこまでわかっているのか知りませんが、彼を迎える側は、そのことを十分にわかったうえで、そういうポジションに彼を置いているわけですよね。だから、彼が「オペラは政治だ」と言って、彼が本気なのはわかるけれども、彼が本気になっても絶対安全な段取りになっている。

やっぱり、いつかゼロから新しいプロダクションを作って欲しいですよね。

(そうしたら、「日本でやってるのは、ライプチヒで見たのとは違う」とか、わけのわからない形でコンヴィチュニー演出が「本物」と「ニセモノ」に等級分けされる、といったことなく、話がすっきりしそうですし……。

まあ、そういう、「本場直輸入」だから日本で売り物になる、という面は歴然とありそうなので、「国産品」にわざわざ外国の演出家を呼ぶのは難しいかもしれませんが。

それから、日本でオリジナルのプロダクションをコンヴィチュニーで作るんだったら、「コンヴィチュニーがイメージするようなドイツの現代人を上手に演じてオーケーをもらう」というように、あくまでヨーロッパに「お手本」があってそれをなぞっているような演技になったらつまらないと思うので(今回の魔女軍団のお芝居が生き生きした日常というより「ダンス」に近いもの(妙な言い方ですがハイカラなモダン日舞とでも言いたくなるもの)になりがちだったのが、演出家の意図なのか、そうしかできなかったのか、ちょっと疑問が残った)、やるんだったら「わたしたちの舞台」と言えるように日本のオペラを彼に演出して欲しい。團伊玖磨とか芥川とか黛とか……。「自前」にこだわるローカリズムということではなく、日本人はこういうときにこう動く、というような暗黙の「型」がコンヴィチュニーと正面からぶつかったときにどういう化学変化が起きるのかを見てみたい。)

6. 終演後、皇居前で思う

終演後、新幹線に乗るまで時間があったので、生まれて初めて、わたくしたちの国の王様のお住まいを見に行って参りました。

広いですね。

あれだけ広大な緑地があると、自動車の騒音が吸い込まれてシンとなってしまいますし、振り返ると、丸ノ内のビル街は、オモチャの箱を並べたみたいにちっちゃいと思えてしまう。(携帯でいいかげんに撮っても、ちっちゃい印象は出ませんが……。)

コンヴィチュニーが、「目の前にある見馴れたものを、試しに遠くに置いてみる。そうすると、今までとは違った風に見えてくる。これがブレヒトの言う異化効果の第一歩」とびわ湖ホールのアカデミーで、「わたしはオペラではプロの美しい歌が聴きたいだけなんです」とおっしゃる奥様に向かって、子供に教え諭すようにレクチャーしていましたけれど、ああ、これか、王様にはこう見えるのか、と異化の方向が左翼なブレヒトとは逆かもしれないながらも、そう思いました。

今の憲法は、国内手続きとしては、たしか明治の欽定憲法の改正手続きに沿って制定されているはずで、議論になっていることは、このちっちゃい箱のなかで働いている人々の代表の過半数の賛成で、ことによると、このちっちゃい箱を遠くから眺めている王様の地位の規定を書き換えることを発議することだってできるようにする、ということですから、革命の道筋が見えることでもありますよねえ。

それはひとつの考え方だとは思いますが、やっぱり重大な変更だし、押し売りから包丁を買うようなわけにはいかない気がする……。