プロ野球中継と梅棹忠夫

前のエントリーに続くようなお話ですが、この連休はテレビの話をするのにちょうど良かったのでしょうか。5日には、父の百日法要ということで母と墓参りに行って、昼間、家に戻ってテレビを灯けたら松井と長嶋と総理の姿が東京ドームから中継されていましたが……。

思えば、わたくしが生まれた年から9年間巨人がリーグ優勝を続けていて、日本テレビの「巨人の星」(再放送で観た)や「侍ジャイアンツ」(1973年10月〜1974年9月、NTV日曜19:30〜20:00、前の年にバロムワンをやっていた枠で、後継番組が「ヤマト」になるようですが、「山ねずみ・ロッキーチャック」「アルプスの少女ハイジ」の裏で本放送は観ず、のちに再放送は面白く観た)は実在の選手が出てきたり、ペナントレースの展開とリンクしていたりしていましたが、

野球好きのオトーサンが息子を球場へ連れて行く、というのならともかく、子供がテレビで中継番組を観る、というのはどれくらいあったのでしょう?

団地の同じ階段の子がエポック社の野球盤をもっていて、「消える魔球」機能があり、その意味を理解していたので、「巨人の星」は(女の子を含めて)子供たちが共通に知っているものだったのは確かみたいですが、あれは、のちのビデオゲームと違って、プロ野球の実在の選手とはリンクしていませんよね。学習雑誌の付録のサイコロを使って遊ぶ野球ゲームというのを妹とさかんにやっていた記憶があり、これは実在のプロ選手で(このゲームが決めた各選手の打率を踏まえて)打順を組むようになっていて、割合よくできていました。

あと、学習雑誌に王貞治765号ホームランを打ったときのラジオの実況中継のソノシートが付録で付いたことがあったはず。1977年9月3日、万年カレンダーで調べてみると、土曜日ですね。ウィキペディアをみても、やはり当時はテレビの中継開始が19:30からで、ラジオでしか実況されていなかったようです。

前のエントリーで書きましたが、野球中継が19:30からに繰り上がったのは1975年頃からのようで、フジテレビ深夜の「プロ野球ニュース」がはじまったのも1976年4月ですから、民放テレビがそれまでとは少し違う形でプロ野球を編成しはじめたのは「巨人V10ならず&長嶋引退」(1974年秋)以後ということになりそうです。1968年から翌年に45連勝の大鵬は既に1971年10月に引退していますから、これでもう「巨人・大鵬・卵焼き」の時代ではなくなったようで、プロ野球番組へのてこ入れは、何か関係がありそうですね。

……何が言いたいかというと、「巨人のON」と言うけれど、ウルトラ・シリーズの立ち上げに辛うじてカスることができて、小学生の頃、子供番組の一斉放射を浴びた世代は、「ハンク・アーロンの記録を抜く王貞治」がマスメディアで派手にカウント・ダウンされた日々は知っているけれど、長嶋は気がついたときには監督や解説者になっていて、現役野球選手としての姿は日本テレビ製作のアニメキャラとしてしか知らないんじゃないか、ということです。(みのもんたの軽妙なコメントは、監督としての長嶋に対してで、現役時代の彼の姿にみのさんの声がかぶさったことはないはずなんですよね。私が徳光和夫の顔と名前を認知したのは歌番組(紅白歌のベストテン)に出てくる人だったからだと思うし。)

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そして、例によって関係があるような、ないようなことをもう一つ書きたくて、それは梅棹忠夫のテレビ論です。

梅棹忠夫 未知への限りない情熱

梅棹忠夫 未知への限りない情熱

評伝を読むと、(京大山岳部の黒幕・今西錦司、日本学術会議の大物・桑原武夫の「子分」だったから、ということでもあるのでしょうけれど)ヒマラヤ、モンゴル、南極、アフリカ……と昭和の日本の学術探検のほとんどに直接間接に絡んでいたようで、その過程で徐々に動物の生態学から人間の生態学/文明論へシフトして、周辺に川喜田二郎や本多勝一や小松左京が登場して、「ヨーロッパを探検するプロジェクト」までやってから万博・民博で北摂丘陵の人、「千里市民」になるわけですが、動物からヒトへシフトする途中で1960年代から1970年代前半には民放テレビに関心を寄せていたようです。

なかでも自身が朝日放送の「放送朝日」という広報誌に寄稿した2つの論文には愛着があったようで、

  • 「放送人、偉大なるアマチュア - この新しい職業集団の人間学的考察」『放送朝日』89(1961年10月号)
  • 「情報産業論 - きたるべき外胚葉産業時代の夜明け」『放送朝日』104(1963年1月号)[『中央公論』1963年3月号に転載]

「放送朝日」の最後の号にも寄稿していたようです。

  • 「『放送朝日』は死んだ」『放送朝日』259(1975年12月号)

関連する文章をまとめた単行本『情報の文明学』が中公叢書として出たのが1988年1月で、初出から随分経っていますが、これは、「梅棹忠夫著作集」が出ることになって、妙な話ではありますが、著作集に収録するために未刊行だった文章を矢継ぎ早に本にまとめていた時期(評伝には「月刊梅棹」状態だった、という言葉がある)に当たるようですね。

情報の文明学 (中公文庫)

情報の文明学 (中公文庫)

「放送人」という言葉は1961年の論文で私が最初に使った造語が人口に膾炙したのだ、とか、「情報産業論」はアルビン・トフラー『第三の波』(1980年、中央公論社から同年邦訳)と同じようなことをはるかに早く予見していた、とか、自慢話がまとわりついているのは、功成り名を遂げて著作集をまとめる段階の後付けかもしれないので注意が必要かと思いますが(トフラーの本は梅棹の本と同じ中央公論から出ていますし)、この『放送朝日』という雑誌のことはちょっと気になります。

評伝では、のちに万博の仕事を一緒にやることになる小松左京と知り合ったのも、この雑誌を通じてだった、ということになっていて、この雑誌がハイブロウで時代の先端を行くものだったかのように神話化されているのですが、実際のところがどうだったのか。

関西の戦後のマスコミと文化人・大学人の関係はどこがどうなっていたのか、よくわからないところがあって、梅棹氏のフカし、という懸念はありますが、どういう雑誌だったのか機会があれば見てみたい。

小松左京自伝―実存を求めて

小松左京自伝―実存を求めて

小松左京も万博へ至る梅棹忠夫とのつきあいのきっかけとして『放送朝日』に言及している。「情報産業論」は『中央公論』に転載されて「センセーションを巻き起こす」(68頁)とある。1930年生まれの名和小太郎先生も書評で「この「情報産業論」(1962年)はながいあいだ噂のみ高く、私たち読者は目にすることができなかった」(http://www.nawa-k.info/rev24.html)と書いていて、60年代に放送や情報産業に近いところにいた人たちの間では、ひとしきり話題になった気配あり。テレビとは何なのか、手探りで走っているときに、頭を整理するよすがになり得たということかもしれない。
現代メディア史 (岩波テキストブックス)

現代メディア史 (岩波テキストブックス)

でも、そのあとで佐藤卓己先生の概説&ブックガイド(1998年段階のものだけれど)を読み直すと、こういう、色々な人がそれらしいことを言いやすいメディア(文化人・大学人を「コンテンツ」として飲みこんでしまうような)のことを本気で論じるには、じっくり、がっちり準備する必要があるんだろうなあ、と思わされる。

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もうひとつ、『放送朝日』という広報誌が1975年末で休刊した、という年号も気になります。

テレビは、時代のながれで内容がうつりかわっていきますが、1970年から75年になにかが再編されたのではないか。

テレビという記憶: テレビ視聴の社会史

テレビという記憶: テレビ視聴の社会史

佐藤卓己先生は田中角栄による放送網の系列化で放送が政治へ組み込まれた、とハードに位置づけるのですが(これは1998年に書かれた現代メディア史の教科書がメディアにおける「グローバリズム」を可視化しようとする志向を強く持っていたからでもあると思う)、世代ごとのテレビ視聴の在り方の違いに対応しながら、そういう世代差を編成した、ということになるのでしょうか。「分節 articlation」というカルスタ用語を使いたくなってしまいそう……。

すくなくとも、わたしは、それ以後のテレビしか体験できていませんし、それ以前のテレビについては、テレビ自身が「なつかし」のトーンでくりかえし編集して放映する映像から一歩そとにでると、わからないことだらけです。梅棹忠夫が、あの、すべての和語をひらがなにする「梅棹式文字づかい」でテレビへの期待を文章にまとめていたらしい、といわれると、鉄腕アトム流のSF的な未来とかさねあわせて、時代のイメージがすこしは具体的になりそうです。

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)

中学生が読めそうな平易な文体と、プールに大量のおたまじゃくしを飼って、その数をひたすら数えて理学博士になる、みたいなハッタリの効いた仕事ぶりと、京都人っぽく案外ずるがしこいかもしれない感じと、「文」と「人」にギャップがあるところが7歳上の吉田秀和とちょっと似ている。大正生まれで戦後文化人として平成までしぶとく生き残るのはこういうタイプだったということでしょうか。どちらも文化勲章を受けて、一方は水戸、他方は民博の「館長」でしたが。