葬式仏教と冠婚葬祭音楽会と「町の写真館」的なプロフェッショナル

2つ前に書いた「ピアノ・リサイタルがスターの満員御礼興行じゃなくてもいいじゃないか」の件。ちゃんと説明すると話が長くなりそうだと思って、続きを書くのに二の足を踏んでいたのですが、自分の立場を簡単に言えることに気がつきました。

思想家・知識人は日本の葬式仏教を日本の宗教の恥ずかしい堕落みたいに言うことがありますが、末木先生が最近力強く肯定する方向へ踏み出しているように、私はいいんじゃないかと思っている。

そしてほぼ同じ意味合いで、演奏する人の知人・友人・親類縁者が集まるコンサートっていうのは悪くないし、むしろ、ちゃんと続けていくのは大事なことじゃないかと思っているんです。

で、ピアノ雑誌なんかの批評(コンサート・レポート)は、ちょうど冠婚葬祭に呼ばれた町の写真館のおっちゃんが記念写真をパチリと撮るようなものだと思って、書くのが嫌いじゃないんですよね。(数が増えると辛いし、そこに色々商売的な事情が絡むと嫌になったりもするけれど、冠婚葬祭の記念写真風の批評を書くこと自体は結構楽しい。そしてそれは、演奏の上手・下手の問題じゃないし、誰かと競争してどうこう、というものでもない。批評の仕事をはじめた最初の頃から、そう思ってます。これがわたくしにとって批評の原点。)

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「オレのカメラはそんなものを写すためにあるんじゃない」と考える芸術写真家、というのがひょっとしたらいるかもしれないけれど……、

父の高校の同級生にNHKのカメラマンだった人がいて、その人が同窓会のときに撮った父の生前のスナップ写真を、先日、引き延ばして額に入れて送ってくださいました。

母はこれをとても感謝しております。

こういうのって、アート(技)の悪くない使い道ですよね。

雑誌にレポートをきれいに書いたら、何年何月何日にどこそこで確かにその人がコンサートをやった、ていうのが、写真を残すようにずっと残るじゃないですか。それって、その人が生きていた証しみたいなものですよね。その手伝いができるのは大変に誇らしい、と私は思う。

イマイチなところがあったら、そう書けばいいんですよ。作文としてちゃんと成立するように演奏の文句を言うのも「写真家」の腕前の一部だし。

そんなところでツンケンする人間にはなりたくないし、こうした思いと、オートポイエーシスだアフォーダンスだ、場所感の喪失だ、マンフレッド交響曲は「オーケストラのヴィルトゥオーソ性」という、深さとは別の方向性(リストのメフィスト・ワルツみたいな)を目指しとるのがあのアクロバティックな第2楽章(妖精の音楽でメンデルスゾーンを越えようとする野心は空前絶後!)を聴いてわからんのかバカタレ、みたいな話と普通に両立・兼業できると思っている。

そういうことです。

(ピアニストが、一度そういう「平熱の音楽の楽しみ」の地点に戻って、そこから一歩ずつ確かめながら大きなプロジェクトをやろうと考えるのは、だから、よくわかる気がしたんですよ。理想が高かったり、日々の商売が忙しくなると、音楽家が発するそういうシグナルは見落とされがちになりますけれど。)