(挙手)先生、質問です!

「自分の好きなもの研究」がしばしばつまらないものになってしまうのは、それが知的な探究の可能性をあらかじめ限定してしまうためです。「自分の好きなものが素晴らしくない可能性」から目を逸らすことに熱意を傾ける「自分の好きなもの研究」は実に多い

増田聡 on Twitter: "「自分の好きなもの研究」がしばしばつまらないものになってしまうのは、それが知的な探究の可能性をあらかじめ限定してしまうためです。「自分の好きなものが素晴らしくない可能性」から目を逸らすことに熱意を傾ける「自分の好きなもの研究」は実に多い"

ここでオシマイなのであれば、これは先生の「独白」なので、どうでもいいのですが、

クラシカルな対象を扱い慣れた人がコンテンポラリーな対象に視線を向けるとき、しばしば「自分の好きなもの研究」の難点を露にしてしまうのは、「価値が認められていること」と「自分が愛着を持っていること」さらに「知的探究に値すること」とを区別する訓練を受けていないためではないかと思うのです

増田聡 on Twitter: "クラシカルな対象を扱い慣れた人がコンテンポラリーな対象に視線を向けるとき、しばしば「自分の好きなもの研究」の難点を露にしてしまうのは、「価値が認められていること」と「自分が愛着を持っていること」さらに「知的探究に値すること」とを区別する訓練を受けていないためではないかと思うのです"

これは、今まで「クラシカルな対象」しか扱ってこなかった人は「コンテンポラリー」に来るな、というセクショナリズムになりかねないと思います。

私には、「価値が認められていること」「自分が愛着を持っていること」「知的探究に値すること」の区別の有無で、クラシカル/コンテンポラリーの気質がすっぱり切れるとは思えませんし、

クラシカル/コンテンポラリーという区別をこの脈略に導入するのは、先生の他者には知り得ない「思い」によるのかもしれませんが、いささか唐突な印象を受けました。

誰のどういう論のどこがダメなのでしょうか?

あと、やっぱり先生は「職場恋愛は厳禁、すぐに辞職願を書け、さもなければ配置替えだ!」のクラスタですか。仕事のパートナーを愛しちゃだめ、モラルの荒廃はここから始まる、なんですよね? クラシカルは対象がもう死んでるから、対象を愛そうがどうしようが、お前の勝手で好きにすればいいけれど、コンテンポラリーは生きた人間相手だから、要注意だ、と。

でも、そこは、あんまりこだわることじゃない気がするんですけどね。止めろ、おれは認めんぞ、と言ったって、やる奴はやっちゃうから。

それに、クラシカルな領域も、その伝承者は生きてますから、やっぱり区別がよくわからないっす。

音大生は、最初から恋愛と仕事の区別がついてないからやりたい放題で問題ないけど、バンドの子にそのつもりで声をかけると痛い目に会うよ、とか、そういう話でしょうか。なんか、かなり偏見が入ってるような気がするんですけど。古典を愛する気取ったセレブの乱れた風紀を、ロケンローが糺すのだ、現代の「感情教育」、みたいな。

先生やそのお友達は、みんな高学歴でイケメンだったから、若い頃は音大生から「狙われた」というだけのことじゃないのかなあ。