禁欲主義者の言いがかり

1つ目の文章と2つ目の文章には齟齬があるように思うのですが、何があったのでしょうか?

2つ目の文章は、新作初演に次のような問題があると言うわけだけれども、

ある作品をたった一度だけ聴いて、すべてを理解できることなど、ごく特殊な能力の持ち主を除いては、まず、なかろう。調性のある作品でさえ、長くて複雑になれば、何度も繰り返し聴かねば聴き手の頭の中に入ってくるものではない。まして、調性がなく、形式も見通しにくいものであれば、なおさらだ。

あなたは、ここでいう「普通の聴き手」ではなく、「ごく特殊な能力の持ち主」、少なくとも「普通以上の理解力のある聴き手」ですよね。なぜなら、1つ目の文章の冒頭で次のように書いているからです。

野平の作品は全く隙のないものであり、それについて私ごときがどうこう言えるものではなかった。また、聴いていて、その美しい響きや巧みな展開には唸らされもした。

何が起きているかわからない、などということはなく、「隙がない」ことを理解し、特定の箇所を「美しい」とか「巧みな展開」として、「唸」ったりしているのですから……。(もしこの文章が、あとで否定的なことを書くことになるので、その印象を緩和するために配置した「口先だけ」の文飾でないとしたら。)

つまり、少なくともあなたは、ちゃんとその作品から何かを受信することができたのであって、その意味で、この作品は、「あなたという聴き手」に何らかの形で届いたわけですよね。これは決して、誰にも届かないような作品ではなかったことになる。

事実、1つ目の文章で続けて書かれている言葉、

「なぜ、そのようなことに作曲者が熱中しているのか」がほとんどピンとこないのである。

は、「そのようなこと」と特定できる程度に、その作品が「どのような」作品であるかを了解していなければ書くことができないはずです。

作品がどうであるか、はわかったけれど、なぜそれを作曲家がやったのか、がわからない、つまり、音響現象としての特性は(ある程度)了解したけれど、その意図をつかみかねた、という風にこの文章は書いている。

だとしたら、これに続けて作者に文句を言うとしたら、

「意図を明確にせよ」

ではないかと思うのだけれど、そこのところはどうなったのだろう?

その後、意図はわかったのだろうか。

しかし、意図がわかったうえでさらに文句を言うのだとすれば、

「そのようなことを狙うのは意味がない」

等々という話になるはずで、そうやって、議論というのは先へ進んでいくのではないのだろうか。

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実際には曲がどういうものなのかわかった(つもりになっている)くせに、そこを隠して、まるで、聴いても何もわからなかったかのようなふりをして、

平均的な受け手の能力を見積もった上で自分の書きたいもののあり方を作曲家には探求してもらいたい、ということなのだ。そして、そのことは作曲家にとって十二分にやりがいのあることだと思うし、音楽文化のあり方を豊かにすることに繋がるはずである。

と話を振り出しにもどすのは、ほとんど言いがかり、衆愚を頼む悪質な扇動ではないか。

(あまりにじれったいので、もう言っちゃいますけど、

ちなみに私は、「なぜ、そのようなことに作曲者が熱中しているのか」の答えは、「他者と共にあることへの強い欲望」、それ以外に考えようがないよなあ、これだけ露骨だと、とあの演奏会を聴いて思いました。ピアノを弾く自分が自分を魅了して止まないサクソフォーン奏者とひとつになること、あるいは、自らの指揮を介して、そのような魅惑のサクソフォーンとオーケストラ奏者たちをつなげて、みんながひとつになること……。そしてコンピュータが切り開く音響体験にMIDIピアノを接続して、人間とコンピュータがひとつになる無謀な欲望がそのような思いの原点であったことを、この機会に明かしてしまうこと。

そのように、他者と共にありたい欲望、他とひとつになりたい欲望を舞台上でお客さんにさらすことは、そのような欲望を抱いてしまった人間にとって、たぶん、それ以外のやり方がなかったであろう、と現場を目撃したら、そう思うしかないんじゃないでしょうか。

セックス現場を目撃して、「なぜお前はそのようなことをするのか」とか、普通言うか? 男女の性交を見たことのない子供が、親の寝室を夜中に覗いて、「ママがいじめられてる」と泣くことは、まあ、ありえないことではないかもしれないけれど。

そして、「音で他者と交わる」などということは道徳的に許し難いと考える「音楽的禁欲主義」を論として立てるというのは、あり得ないことではないかもしれないし、なるほどそれは、オペラに心が動かない堅物感の説明として、割合よくできているかもしれない、とは思うけれど。

戦前の東京音楽学校は、ショパンもNGで、どうやら「音楽的禁欲主義」に近かったような気がするし、きっとあなたの音楽観は、そこに軸足があるのでしょう。

でも、音楽家は、大好きなおかーちゃんが死んじゃったよ、ウワ〜〜ン(大植英次のマーラー5番)とか、この人と交わりたい〜♪とか、そういう姿をときとしてそのまま見せる。そうやって、舞台の上で生きている。そういうのを見てしまう/聴いてしまうのが、ライヴ/ライフというものではないのだろうか? 少なくともある年代の日本人のなかには、そうやって洋楽で生きることを選んだ人たちがいる以上、それをこちらも体を張って受け止めないと、「コンテンポラリー」が成立しないんじゃないだろうか。

武満徹を意識せざるを得ないところにいて、ブゥレーズ[←これでよいのか]を間近で見て、でも演奏家としての能力のとんでもない向上が日本のこの世代の特徴なのだから、こういう形で自分の場所を見つける人が出てくるのは、出てきてみれば必然かなあ、とも思いますし。)