うたごえをプロデュース

先日、野平一郎がパリのIRCAMで作ったMIDIピアノのライブエレクトロニクスの曲を聴いたわけですが、のちにNeXTに移植して公開されて火がついたMax(関西でもジーベックホールで催し物や講座などが当時色々あったみたい)の原型が誕生した場に、野平さんはいた、ということですよね。

MIDIピアノを介してコンピュータとリアルタイムに交わりたい、ピアニストをコンピュータと交わらせたい、という欲望全開の大曲で、それを聴きながら、IRCAMの周囲には、きっとこんな風に艶めかしくエロティックな感じの試みが色々あったんだろうなあ、と思いました。

再発売されたようですね!

映画「カストラート」にIRCAMが協力して、サンプリングした男声からカストラートの声を合成したのも、単に技術的なチャレンジというのではなく、映画のなかにあるように当時の人たちを魅惑したような声でコンピュータを歌わせたい、という欲望があったのではないかと思います。

オペラ、魅惑する女たち

オペラ、魅惑する女たち

(スタロバンスキーのオペラ・エッセイの翻訳が出ていますが、魅惑する enchanter は歌う/唱えるの意味の canto から派生して、魔法の呪文(英語では chant の語をこの意味で使う)の意味合いが強くなって出てきた言葉なわけですから、歌うこと chanter で魅惑する enchanter というのは、一種の先祖返りでもあるわけですよね。)

で、この話がどこへ行くかというと、

戦後日本の聴覚文化: 音楽・物語・身体

戦後日本の聴覚文化: 音楽・物語・身体

初音ミクのヴォーカロイド問題は、今のポピュラー音楽学会の主流であるところのアングロサクソン系言説分析の手法で「声の主」をどこへ定位するか、とやるだけでは空転しそうな気配があって(増田&濱野のダブル・サトシの「言説」を解析しても……と思わざるを得ない)、

ヨーロッパ系統で「歌うこと」といったら、どうしたって教会のチャントから流れてきているものを見極めないとしょうがなさそうだし(東アジアだったらほとんどの藝能が仏教と関わってくるし、どこの文化・文明でも宗教なしに「歌」を扱うのは無理でしょう、たぶん)、

もうひとつ、音響と音声のエレクトロニクスの技術のなかであれは何なのか、やっぱり、そこの基本を押さえないとダメかもしれない、と思ったです。

若き日の野平さんの曲もコンピュータにこんなことをやらせようと「プロデュース」している感じがあって、音響と音声のエレクトロニクスに取り組もうとすると、人間が「プロデューサー」(←ものづくりの人の意味ではなく、パフォーマンスの仕掛け人の意味)の立場になってしまう傾向は、黎明期から既にあったような感じです。

そのあたりをどう考えたらいいのか、まずは谷口先生の論考を買って読まなければいけない。

メディア技術史―デジタル社会の系譜と行方

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