じじくさい話

「要するにあの人は見境なくおしゃべりなのだ」ということで衆目が一致して、そのようなシフトが組まれると、大勢は落ち着く。おしゃべりはおしゃべりとしてほっといて、言うべきことのある本人が言うべきときに言うべきことを言えば、世の中は、まあ、八割がた普通に回るとしたものである。

そうなると、色々おしゃべりをする当人はひょっとすると都会の孤独を感じたりするのかもしれないけれども、きっと長年そういう関係性を生きているのであろうから、これもまた、大きな問題はないのであろう。

ちなみに、インターネット上の宣伝の効果は、閲覧数の1%以下と言われているようで(記憶違いでなければ)、ということは、ものすごいページビューがあるようなサイトに育て上げる見込みがないと、そうそう、投げ網式の広告効果はないようだ。

(新しいしくみができると、「これは違います」と売り込むのだと思うけれど、たいてい、そんな魔法の杖にはならないし、コンマ以下、というのは、感覚的・経験的にもそうだろうなあ、と思うよね。コンマ以下を前提に使えばいいわけで、そういう意味でも、世の中は八割がた、今も昔も「普通」に回っている。)

ところで、冠婚葬祭、お祝い事、栄養等々とかの告知というのは、通常、誰がいつどういう風にやるか、それなりの段取りがあるもので、告知をするのは、「うちがその件は窓口になります」みたいな意味合い込みになるものだと思うのだけれど(例えば、これはお悔やみごとだけれども、吉田秀和が死んだときは、水戸芸術館が発表して、そのあとのお別れの会まで全部仕切った)、そういうのも、瞬間的に消費されるおしゃべりの話題に気軽に組み込んでいいことに最近ではなっているのだろうか。日本も変わった。