もし○○だったらこういうときはこう書くであろう、という発想の帰結が知りたい

「パレストリーナ様式」というのがあって、私の雑駁な理解が間違っていないとしたら、それは対位法を運用するときに、「もしパレストリーナだったら、こういう場面ではこう書くだろう」というように考えて音を置いていくトレーニングなのだと思う。

長谷川町子がいなくてもサザエさんを作り続けることができるのと、同じ原理ですね。

日本語の運用でも似たようなことがあって、評論文であれば「もし小林秀雄だったら……」、「もし吉本隆明だったら……」、「もし柄谷行人だったら……」、と自分が心酔する人物を代入したらよくて、音楽評論であれば、「もし吉田秀和が生きていたら、こういう場面ではこう書くだろう」でいくと、サザエさんのように、クラシック音楽が未来永劫続くかもしれない(笑)。

何をどう考えて、何をどう聞いても、まったく自由なのだけれども、それを日本語で出力する段階でこんな風に「枠」をはめておけば、大きく間違うことはないだろう、ということで、ある種の安全・安定が得られるとも考えられる。

外国語を翻訳するときにも、これでいけば、「この水準の日本語にもっていくぞ」と目標・ゴールを設定できるので、作業がやりやすくなったり、悪い翻訳を一刀両断することができるようになる(のかもしれない)。

で、そういう風な日本語の「檻」を信奉する人は、リンク先のような議論を、いったいどういう風に思うものなのでございましょうか?

http://d.hatena.ne.jp/nakaii/20131107