マスメディアはウルトラマンや仮面ライダーやドラえもんではない、と今さら言っても

まあもちろん、今ここで窮地に陥っていたり、どこかに閉じ込められて進退窮まる「ぼく」や「わたし」がいるとして、おもむろに「助けてウルトラマン!」と呪文を唱えても、テレビ番組みたいにかっこいいBGMが鳴って空からヒーローがやってきたり、どこからともなくバイクの音が近づいてきたり、「タケコプタ〜」がポケットから出てくるわけじゃない。

でもまあ、そんなことは世間の8割がたの人(東京に住んでいようがいまいが)は知っているし、メディアの「中の人」の大半は、世間と同じかそれ以上にそのことをよくわかっているはずだから、

「8割では常識の普及率が低すぎる、例外なく全員に周知徹底を!」と叫ぶファナティックな議論(教育改革ってだいたいこんな感じのことを言うよね)はさておき、

そんなことを改めて確認するのが「ゼロ年代の総括」なのだとしたら、なんてチンケな話なのであろうか、ということになる。

でも、それって何か話を逸らしていたりしないか?

堀江さんは「家入に風が吹いている」と言っていた(とみなが思う言葉を発していた)し、小保方さんは「だれでもSTAP細胞が作れると言っていた(とみなが思う言葉を発していた)のであり、それはごまかすべきではない。訂正するのはいいけれど、最初から「言っていない」はない。

東浩紀@編集者募集中 on Twitter: "堀江さんは「家入に風が吹いている」と言っていた(とみなが思う言葉を発していた)し、小保方さんは「だれでもSTAP細胞が作れると言っていた(とみなが思う言葉を発していた)のであり、それはごまかすべきではない。訂正するのはいいけれど、最初から「言っていない」はない。"

STAP細胞はある条件下では作れるのだろう(と信じたい)。しかしだとすれば、科学者は「厳しい条件がある」と言うべきだったし、科学ジャーナリズムも過剰な期待を抑えるべきだった。いちど能天気なことを言って煽っておいて、あとから「現実はそんな簡単なもんじゃない」と言うのはずるい。

東浩紀@編集者募集中 on Twitter: "STAP細胞はある条件下では作れるのだろう(と信じたい)。しかしだとすれば、科学者は「厳しい条件がある」と言うべきだったし、科学ジャーナリズムも過剰な期待を抑えるべきだった。いちど能天気なことを言って煽っておいて、あとから「現実はそんな簡単なもんじゃない」と言うのはずるい。"

こういう指摘・違和感は、もうちょっと違うことを指しているように見える。

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そしてこうした違和感を梃子にしてイノベーションを、ということになると、またもやモダニティの復興になるわけだが、

話法の変更、モード・チェンジで結構多くの部分に対応できる余地がまだまだ残っていたりするのではないか。

モダニティよりモダリティ。

フランス系やロシア系(その合わせ技が、つい先日まで「今なお色あせない衝撃」ともちあげられてたストラヴィンスキー)やラテン系の20世紀は、そういうものだったような気がしてならない。

レスピーギの1921年の「グレゴリオ聖歌のメロディーによる3つの前奏曲」は、ドビュッシー風の3段譜で書いてあったりして、これをオーケストレーションした「教会のステンドグラス」とはまた違った味わいで、20世紀をどうやって生きていこうかと模索していた当時の作曲家にとってのグレゴリオ聖歌=モードの意義を改めて考えさせられる。

まあ、レスピーギにかかると、このあと、「ミクソリディアのなんとか」とか、「ドリアのなんとか」とか、連発するようになって、ちょっとこっぱずかしくはあるのだけれど、この方向性は、ちょっとのちの早坂文雄のモード愛好に似ているんじゃないかとも思う。

ちなみに、チャイコフスキーの「1812年」の最初のところは正教会の讃詞(トロパリ)だ、ということで合唱に替えてやったりするけれど、たぶん、固定した旋律というより、こんな感じに唱えているのを作曲家が五線譜化したんじゃないかと想像するのですが、どうなんでしょう。(言葉がわからないので、まったく見当違いのものにリンクしている可能性があり、話半分にしておいていただければ幸いですが。)