音楽の自立と表現の自由

(追記あり)

よく言われることだが、「表現の自由」は公権力が私人の意見表明を制限してはならない、という申し合わせのことで、私人同士が言い争うなかで何が起きても原則関知しない、しちゃいかん、の意味。民事不介入みたいなもので、それ以上のことは言ってない。(何言っても免責される、ではなく、全部君の責任であり当局は関知しない、のハードボイルドだ。)

同様に、

「音楽そのもの」という言い方の背景にある、音楽の自立というアイデアは、音楽を宗教や儀礼やドラマから切り離して観賞、論評してみたらどうだろう、という提案にすぎない。

なにがどうなるか、よくわからんけど、試しに、宗教や儀礼が介入しない環境に音楽を置いてみようという実験だ。

表現の自由のほうは、割合多くの支持を得て今日に至っている、というか、その原則で運営した社会のほうが、面倒や苦労はあるけど長い目でみたらシアワセそうだし、実現を目指すなかで社会が鍛えられていい感じになりそうだ、という通念がかなり広まっていると思う。

でも、音楽の自立のほうは、クラシック音楽方面でも、提案があってから二百年、支持者は絶え間なく現れて、そこから様々な知見や商売が派生してはいるけれど(立証されてなくても役に立ったりビジネスが成立することは当然ある)、多数派なのか定かじゃないし、まして原則ではない。そうできたらいいかもね、もうこれでいんじゃね、と思ってる人がそれなりにいる程度。

数学でいえば、公理や、立証済みの定理ではなく、「予想」だと思う。

「音楽の自立(が可能だという思想)」は、クラシックでは既に確立されたテーゼである、みたいに言うのは過大評価もはなはだしい。というか自堕落な思考停止の気配が濃い。(酔っ払いの駄弁、とか(笑)。)

「音楽の自立」の不安定な身分は、理研のなんとか細胞みたいなもんです。

そして音楽のような文化の世界は気が長いから、「はやく追試験で白黒つけろ」「疑惑に答える会見開け」とかいわずに、のらりくらりと二百年、宙ぶらりんで今日に至る。

まあでも、数学だって何百年誰も証明できないままの問題が色々あるんだし、人間世界はそんなもんじゃないの。

過剰な期待はダメよ。

確かに、音楽は自立「すべき」と主張して社会実験的に行動して色んな実績を重ねた人や団体、国や地域はあるけれど、マルクス主義が20世紀にもたらした功罪、悲喜劇を考えればちっちゃい話、コップのなかの嵐、いわゆる「プチブル冒険主義」だと思いますよ(笑)。

この件は、その程度のこととしてつきあえばいいんじゃね。

音楽の周囲に「未解決問題」はほかにも大小いろいろありそうですし。

(そして、「音楽そのものと向き合う」は、「日本にもようやく本物があらわれた」式のうわついたこと言う人が鉦や太鼓で騒がしいとか、詐欺が横行するとかのときに、あなた本気で言ってますか?と冷静になってもらうために内容証明付きの質問状を出す、とか、そういう使い方をするもの。うっとり「音の楽園」に遊ぶというより、民事訴訟めいたガチンコの最終手段だと思います(笑)。物騒で平時に振り回す代物ではないが、いざというときに使う。そういうもんだと思う。)