そしてようやく男のintroduceが終わって、彼女とその音楽が語り始める。(書き言葉というメディアの特性ゆえに、その男の言葉を通してではあるが……。)
はたして彼女は、その人生と音楽を結びつけるようなしぐさをみせるのか、そんなことをしないのか。あるいは、私たちは、否応なく何かを読み取ってしまうのか。それとも、そのようなことをさせない強い意志を感じるのか。あるいは、そのような俗事を忘れさせるときが流れるのか。もし、そのようなときが訪れるとしたら、それはどのようにしてなのか。
今、「彼女の」物語がようやくはじまる。
音楽と人生を関係づけたくないと願うのであれば、それは、「私はそれを関係づけない」と書き手が宣言して、語りに枠をはめるという乱暴なやり方によってではなく、彼女の振る舞い(を書くこと)によって自ずとそうなっている、というほうが、おそらく、語りとして上質であろう。
音楽がはじまるとき、進行係は気配を消して下手から退場しているわけだ。
もちろん、そのようでない形で音楽を語り、そこに人生やら何やらがさまざまな形で介入するような言葉の連なり、というのもあり得るわけだが。
そしてしかし作りすぎると、今度は別の水準で「書き手の作為」が鼻についたりするから、難しいよね。
作曲と作文ってどっちが難しいんだろうね。バカな質問だが……。
(そういえば、「平成の頃」には、音楽学に未来はない、とか、もう音楽批評は終わった、とか言われていたけど、あの倦怠感はどうなったの?)