ゼルナーが演出したテレビオペラ版の「フィデリオ」を見直すと、ときどき変なショットがあることに気づく。
- アーティスト: ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
- 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
- 発売日: 2002/06/26
- メディア: DVD
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とくに第1幕のホームドラマ風のシーンで顕著だけれど、たとえば独白調のソロで、歌っている歌手の右向きの横顔のアップが画面の左半分を埋めて、画面の右半分が何もない空白で背景の壁だけが広がっていたりする。
もしマンガだったらこの画面右半分の空白にフキダシが入るんだろうなあ、と思わせる構図で、おそらく演出意図としては、ちょうどマンガのフキダシみたいに、画面の右半分が歌手の口から出た「音楽」で満たされているのであって、だから、「音楽をつぶさないために」画面右半分を空けている、ということなのだと思う。
リアリズムだと言われつつ、今からみると、どこかしらよそよそしい感じにも思えるオペラ映画やテレビオペラには、割合こういうやり方が多かったように思う。音楽は、見えないけれどもそこにある幽霊みたいなものとして、画面上にその場所が確保されている感じがするのです。
そしてそのような「音楽の幽霊」がエクトプラズムのように歌手の口から前へ放出されているのだと仮定すると、オペラやミュージカルの映像にありがちな、愛し合う者たちのデュエットで、二人が顔を寄せ合って、しかしお互いを向き合うのではなく、身体は抱き合っているのだけれども顔は二人ともカメラのほうを向いて歌っている構図も納得がいく。
同様のポーズ、人物配置は舞台でもしばしばありますよね。
音響的な説明としては、音が会場・客席に良好な状態で広がるためには、発音源である歌手の前をふさいだり、歌手に後ろを向かせたりしてはいけない、ということになる。そして確かに、そのような音響上の配慮・意味合いもあっただろうとは思うけれど、基本的に口パクである映画やテレビの映像でそうするのは、「音楽がどこにあるか」という象徴的な表現、どのような構図にすれば「そこに音楽がある」と見ている人を納得させることができるか、という、共同幻想めいた音楽観の現れでもあるんじゃないか、という気がします。
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で、もっと新しい時期の映像・演出が自由に人物を動かし、配置することができているのは、もはやそういう歌手の口から手前へ放出される「音楽のエクトプラズム」、見えてはいないけれども音楽がそこにある、という信仰を止めたからだと思う。
「音楽」は、特定の場所にふわふわと漂っているようなあり方をするとは限らない。話し言葉と同じように、相手にストレートに投げつけられることもあるし、観客へ訴えかけられることもあるし、誰かに聞かせるつもりではなく、その場でつぶやかれることもある。「音楽はここにこういう姿で存在するのだ」と決め打ちで特定しないことで、芝居が自由になると同時に、音楽も自由になるはずだ、というような考え方が出てきて、その実践が当節のにぎやかなオペラ演出なのだ、という解釈が成り立ちそうな気がします。
おそらく、この種の演出に根本的な違和感を覚えて、「そんなことをされたら、落ち着いて音楽を聴けないじゃないか」と文句を言う人がいるのは、その人が暗黙に想定してきた「音楽のあり方」、見えないけれどもそこにある、というような観念を踏みにじられた気がするからではないかと思う。「エクトプラズム」を止めちゃったオペラ演出を見慣れていない人は、音楽がいったいどこにあるのか、目が泳いでしまうのでしょう。ちょうど、マンガを読み慣れていない人が、どういう順番でコマを追っていけばいいのか、要領がわからずに戸惑ってしまうように、たどるべき糸(音楽)を見失っているのだと思います。
コツがわかれば、やみつきになるほど面白いんですけどね。
従来のオペラの作法を知らない人、先入観のない人のほうが「演出の劇場」にストレートに反応するのは、そういう事情もあるんじゃないかと思います。
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一方、われらがニッポンの狂言役者さんは、実演に接するとものすごい声であることがすぐにわかるし、あれが伝統演劇の背骨のような発声なのだと思いますが、指導するときには、「声を背中から出せ」と言ったりするようです。つまりどうやら、口から前方へエクトプラズムしているのではなく、四方八方へ声/うたが放射されている、という音声観・音楽観がありうるようなのです。
口からのエクトプラズムと対比するとしたら、裸電球がピカっと光って辺り一面を照らしている、とか、もうちょっと高尚に言うと、阿弥陀如来の光輪が四方を照らす、とか、そういうイメージだと思います。
そしてこの考え方でいくと、別に、相手のほうを向いていなくても、芝居は十分成立するかもしれない。
まずは人物Aがピカーっと光って、その光を跳ね返すようにして、人物Bが少し離れた場所で、もうひとつの光源として輝く。そして複数の光源が近づいたり離れたり、重なったり、一方が他方を包み込んだりするのがドラマである、と。
(そして能が引き算の演劇だ、というのも、自分が光るのではなく、周囲の光・気配を受け止めたり、乱反射させる鏡のようなものだと思えば、こうした裸電球的演劇観の枠組みのなかの特異例と解釈できるかもしれませんね。)
日本神話のトップは太陽の女神様なのだから、このイメージは、話ができすぎなくらいに具合がいい。
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ここまで来るとゴール目前かと思いますが、栗山演出は、たぶん、この系譜だと私には思われます。
で、あの先生の手にかかると、その世界観というか音声・音楽観にすべてが変換されてしまうから、西洋系の演出家のようにチマチマとト書きや設定を手直ししないで、オリジナルの台本・ト書き・譜面のままで、別の作品であるかのように、すべてが読み変わってしまう。そういうことじゃないでしょうか。
だから、エクトプラズム系の歌唱・芝居をやる人だと、単体で見ると立派でも間が持たない感じになるんだと思う。声を口から出す、と思ってるうちは、小さな家庭用消火器で一面の大火をどうにかしようとするような無力感に打ちひしがれることになる。
(誉めるんだったら、そういうことを今も大まじめにやって、ある程度のところまで来たことを誉めて欲しいよな。しかも、藤原歌劇団の人とか、コンヴィチュニー・チルドレンみたいな子のほうが、むしろ栗山ワールドへの対応はスムーズであったことが興味深い、とか。)