どっちやねん

(a) いわゆる「負け組」さんとおぼしき人たちが時の為政者に歓呼の声を上げると、「搾取され、自分たちの首を絞めることになるとも知らずに愚かなことである」とさげすまれる。

(b) いわゆる「負け組」さんとおぼしき人たちが「勝ち組」さんとされる人たちに厳しく迫ると、「これからはこういうことが増えるんだろうなあ」とおびえられる。

どないせえっちゅうねん(笑)。

外側から見ていると、実は、「負け組」カウントされている人らは、別にあんたらのことを大して気にしてないんやと思う。その人らも自分らのことで手一杯やねんし。

おそらく、私たちってひょっとしたら「勝ち組」かも、という自己意識には、「だったらきっと、負け組さんたちに恨まれているんだわ」という妄想、自己ならざる者との間に壁を設ける反作用がもれなく付いてきて、プラスの形であれ(歓呼の声)、マイナスの形であれ(脅迫)、私たちにつきまとう「忌まわしいあの人たち」の姿が、実際にどうであるかと関わりなく、心のなかに登録されて、適宜、相手の顔に、その忌まわしいイメージが貼り付けられる。

ええと、ですねえ、そういうのをなんと呼ぶかというと、きわめて古典的な「差別意識」ちゅうんですよ。

もう一度いいますよ、いいですか。

さ べ つ。(笑)

そんなに周りの目ばっかり気にせんと、勝手にしあわせになったらええがな、おめでとう!

こっちはこっちで、あんじょうやりまっさかい。[←たぶん間違った大阪弁]

たぶん、世の中は正面衝突のゼロサム・ゲームと見ることができるほど単純に設計されてはいないので、あなたのしあわせの分だけ、どこかでだれかが不幸になっている、とか、その逆、という風に収支をすっきり計算できたりはしないんですよ。

もし故意に他人から何かを奪った事実があるのだとしたら、それは、言っちゃあ悪いが自業自得なので、辛いだろうけれどもオノレの罪に耐えてください。そういう人の魂を救済するメニューも、人類の長い歴史のなかで用意されているはずなので……。でもその場合でも、それはその人の問題であって、強引に拡大解釈した一般化はできないはずです。

(大阪という地域は、幸か不幸か、戦後、かなり粘り強く学校教育で「差別とは何か」というのを学ぶことに力を入れていて、それがどうだったかについては様々な意見があるだろうけれど、少なくとも、こういう、あまりにナイーヴな意識を人前で露出するのはマズイ、という感覚はかなり浸透しているように思う。そういうのを「文明化」と呼ぶのではなかろうか。)

本当はひどかった昔の日本: 古典文学で知るしたたかな日本人

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