東京の人に質問です:ニューヨーク・フィルは「地方オケ」ですか?

ギルバートくんになってからコミュニティ重視を打ち出しているそうで、うっかりYesという答えが返ってきそうな気配があり、話がややこしそうではあるにしても……、

京都のオケと札幌のオケをひとまとめに「地方」と呼ぶということは、リヨンの歌劇場は「フランスの地方オペラ」、ミュンヘンやライプチヒのオーケストラはドイツの「地方」の涙ぐましい村おこし運動、ヤンソンスやシャイーは、村のシンボルとなるユルキャラ、地域観光大使なのでしょうか?

ベルリン・フィルは、ついこの間まで「地方オケ」だったのが、首都に昇格したから、この称号?(汚名?尊称?)を晴れて(or謹んで)返上することができた、ということになるのでしょうか。

(余談だが、指揮者になんでもかんでも「マエストロ」と付けるの、止めませんか? 形骸化が激しすぎる気がする。なんだか、言葉の上で、みんなにバッハみたいな鬘をかぶせるコスプレをやってるかのようだし。)

そしてニューヨークのオペラやオーケストラが、首都でもないのにアメリカの代表みたいな顔をしているのは「生意気な思い上がり」なのでしょうか?

(京響のあの人が指揮台でジャンプして、楽屋でピアニカを吹きながら取材を受けるのは、そんな世の中の空気を察知して、ユルキャラを率先して演じているところがあるかもしれないけれど……。かつてのミネソタの Eiji も、ちょっとそんな感じがあったのか。その意味で、10数年前の共和党が強かった頃の北米のノウハウが一週遅れで今の欧州や日本に奇妙にフィットしてしまったのが、昨今の「巨大帝国支配下でのコミュニティ再生」(「中国化」の與那覇潤が面白く分析しそう)というノリなのだとしたら、東京の人が今も「地方」という言葉を平気で使えてしまう、という症状は、ちょっと面白いかもしれないですが……。)

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「あげて落とす」が大好きな人たちのことだから、たぶん、しばらくすると、「いま地方がすごい」と持ち上げるのだと予測する。

女の子が「ジモト」へ帰って、海にもぐって雲丹を取るように、音楽家たちが京都や札幌で素晴らしい演奏をしています。なんと感動的なことでしょう。by みなさまのNHK、みたいな感じだろうか。

この流れを機敏に見て取った経営士が、京都と札幌がすごいのだから、大阪の室内オケもすごいのは当然だ、という謎の三段論法を仕掛けて、ひとしきり稼ぐだろう。

そして頃合いをみて、何かをきっかけにして、「やっぱり東京のこれにはかなわないよな」みたいにハシゴを外して、次の焼け畑へ移っていくわけだ。オリンピックへ向けて、最後は三回転ジャンプしてから東京バンザイの着地を決めなきゃモリモトソーリに何言われるかわからないしね。

「わたしたちは“地方”のものでも、いいものはいい、と評価する心の広い善人です」という顔をして、こういうことをするから、都会は怖えーでがす。

新しい要素がひょっとすると含まれているのかもしれない事態が、パッケージとしては、田中角栄時代を彷彿する古典的にマッチポンプな言説で総括される。そんなクラシカルで雑駁なニッポン像が21世紀にもまだ通用するか、要注目!

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オーケストラは、「首都 - 地方」という国家の序列に組み込まれているというより、各々の「都市」単位で活動している、が順当な見方だとは思うのだが、そしてオケマンという流動性の高い労働力は条件次第でどこへでも短期でどんどん移動していくわけだから、看板と中身の関係は実に複雑なわけだが、

(たとえば今の京響の主要奏者の経歴を調べてごらんなさい、これはもちろん「食材偽装」じゃないよ、オーケストラとはそういう風に人が循環するシステムだっていうことがわかって、井上や大友の頃から何年もかけて取り組んで来たから、ここは上手になったのです)

でも……、そういうことを忘れて「地方」をヴァーチャルに「観光」するほうがいい気持ちになれるということか。

長い目で歴史を見たり、外の世界の騒動を踏まえると、首都がどこか、なんてコロコロ変わるし、国境だって変わることは、もちろん知識として頭のどこかに入ってはいるけれど、その引き出しは音楽とは別なのよ。そして仮にそういう知識を踏まえたとしても、そういう儚い浮き世だからこそ、「今はここが首都であり、仁徳天皇が高津宮から大阪湾を一望した故事にならって、地方のシモジモの良き働きぶりをながめる、そのシアワセを味わいたい」。そんなところだろうか。

(しかしそれにしても、最近、京都の人が、敢えて京都を「地方」と呼ぶ例を続けて見かける。この都市の「政治感覚」は一筋縄ではいかない。)