正調「赤い陣羽織」

2013年度の最後に、ようやく、武智鉄二原演出として伝承されているスタイルの「赤い陣羽織」を見ることが叶った(30日、伊丹ホール)。

第2場導入部の生き物のように舞台上を動くサーチライトは1950年代のサスペンス映画、ヒッチコックの言葉抜きで状況を説明してしまうカメラワークみたいでいいんですよね。(これは桂直久先生がのちに加えたアイデアだとご本人から以前伺った。)

第3場は、冒頭の「門」から最後まで、人間の並びだけで「絵」になっている。大げさにいえば、武智鉄二の目を今日に伝えているシーンだと思う。彼は、こういう風に舞台を見た/見せた人だったんだなあ、と感嘆するし、こういう舞台を踏まえて、対抗して作りあげられたスタイルだから、栗山昌良せんせは、ああいう風になるのだと思う。それはたぶん、「和物にはいいけど、洋物には合わない」という風に片付けられる話ではない気がします。

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ちなみに2日前(28日)には、新国合唱団とカレッジ・オペラハウス合同の演奏会&ワークショップ(演出で岩田達宗が参加)に行った。

後半は、カヴァレリアとトラヴィアータの合唱にその場で演出をつけるワークショップで、細かく仕上げる時間はないのでポイントを絞って投げかけて結果を見る、ということで終わったけれど、そこで岩田達宗がやってみせたように人間(の関係)をコアにして舞台を作っていく方向性(教会から出てくる村人のなかに「家族」を作りましょう、とか、セレブなパーティ客が超高級貴重品だったシャンパンを早く飲みたくて各々の手元のグラスに気がいっていたのが、アルフレードという新参者の出現で「おや」と思い、いつしか彼の歌に引き込まれる等々)がある一方で(←どちらも演出家の提案は人の関係やその変化を合唱団のなかから生み出すヒントになっている)、これとは別に、人体を「部品・コンポジット」のひとつとして光・色彩や物体と組み合わせていく方向性があって(こっちを目指すと舞台が「動画」っぽくなっていくように思う)、このふたつは、決して二者択一ではなくひとつの公演のなかで交錯することもしばしばあるとは思うけれど、最近の舞台作りでせめぎあう焦点になっているのは、動きのある/なし、表情のある/なし以上に、これではないかという気がする。

(たとえば年末の紅白でも、たぶん年ごとに演出の基本プランが違っていて、一昨年は「動画」っぽい舞台だったけれど昨年は「人・人・人」だったじゃないですか。それは、どこのタレント事務所が強いとかいうゴシップに尽きる違いではなく、今のお客さんが舞台に何を求めているのか、作り手が、それぞれにポリシーを持ちながら色々探っているんじゃないかと思うのです。)