豊満と洗濯板

ローマに安住の地を得た今のムーティとか、少し前の、ブッセートのヴェルディ・フェスティバルに仲間を連れて乗り込んだゼッフィレッリとかを見ていると、時代を作った人が、そのあと、歳を取ってもやりたいことをやり続ける場所を見つけられるようになっているのだなあ、と思う。

何の世界でも、「大物」の最後は、しばしば、こんな感じになるけれど、ちゃんとこういう感じになり得るのが、ある種の文化の厚みなのでしょう。

「それにひきかえ日本は」、と続けるのはダメな論法ではありますが、

ロンドンのオペラ誌で日本の公演が異例に大きく取り上げられて、歌手は誉められてたけど、演出はイマイチと書かれていた、という話を、「あの演出家はもう過去の人」というお墨付けを得たかのように流布するのは、ふがいないと思うんだよね。

好き嫌いは別にして、なぜ、そのような演出家が日本にいるのか、ガイジンがちょろっと取材しただけではわからんところを、ちゃんと誰か言葉にしろよ、と思う。それができてないのは、むしろ、こっぱずかしいことじゃん。

何かこう、やせっぽちで、風の吹くままあっちへフラフラ、こっちへヒラヒラ、な感じですよね。その、フラフラ・ヒラヒラなところが「日本文化」である、という切り札めいた結論は、もはや陳腐だし、それこそ英国人が評価した、とみなさんがお喜びでいらっしゃる当世の歌手のみなさんは、もはやそんな感じにフラジャイルではないことを、たぶん、目指してますよね。

愛国心の話をしてるんじゃないんですよ。

英国人が誉めたものはいい、誉めなかったものは悪い、とか、そんな論法が、ほんとに歌手たちを応援することになるのだろうか。

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周到に設計された「絵」は鮮やかに目に焼き付く。作品に外側から枠をはめて、歌手は声で勝負せよ、内側の空間はオーケストラの響きで埋めなさい、というわけだ。
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葛藤の火花が散る舞台。作品を隅々まで咀嚼して、しかも強固な視覚表現を音と声で押し返すのだから、日本のオペラは、たくましくなった。(音楽評論家 白石知雄)

(2014年3月20日、日本経済新聞大阪版夕刊)

あまり上手に書けてはいない一例かもしれないが、頑固な演出家を、「さわらずにそっとしとこう」と放置するのではない物の言い方を工夫しないと、年寄りと若者が同じ時代を生きてる意味がなくなってしまうんじゃないのかな。