オペラ・セリアは神々の活躍を王様たちが楽しんだ、グランド・オペラは王家の歴史をブルジョワたちが楽しんだ

要はそういうことですね。

王様たちにとって、ギリシャ神話が十分にワクワクできる娯楽であり得たのは、現実世界で何かというとうっとうしいことを言ってくる教皇や教会が存在しないキリスト教以前の話で、ルイ14世がアポロンのコスプレを楽しむ(バレエなのでコスプレは言い過ぎだが)というように、王様たちは、人間に強大な影響を及ぼすギリシャの神々に(そして運命に翻弄されながら生きる英雄たちに)アイデンティファイしてドラマを見物していたのだと思う。

(セリアは歴史劇、ブッファは現代劇で、能と狂言の関係に似ている、と言われたりして、私もそんな風に思っていたけれど、むしろ、神々に命運を握られている人間の姿と、人間同士のやりとり、という設定の違い、神々がいるかいないかの違いといったほうがいいのかもしれない。ブッファは「現代」というより、ギリシャ・ローマ以外、神々の勢力圏外、という感じですもんね。そしてそれは、カストラートが出るか出ないか、とも関係している。能と狂言の間に、仮面をつけるかつけないか、の違いがあるように。)

一方、グランド・オペラの題材はスペインや英国やフランスの王家の歴史から取られていて、姻戚関係やら宗教やらがぐちゃぐちゃに絡まり合う王朝史をブルジョワが面白がるのは、おおかた、会社の社長(やその予備軍)が戦国武将に経営を学ぶ、みたいなことなのだろうと思う。

そうして、ヴァロワ朝をお家断絶に導いたサン・パーテルミの虐殺とか、「沈まぬ太陽」が沈んでしまったフェリペ2世晩年のお家騒動とか、大河ドラマの題材になりそうな話でマイヤベーアやヴェルディが大作を発表するのは、純文学より歴史小説のほうが圧倒的に売れるし実入りがいい、ということだったんだろうなあと思う。

このあたりの王様たちの人物相関図は、ギリシャ神話に負けないくらい複雑に入り組んでいるから、いくらでも面白い物語を取り出せそうだし、バレエをフランス宮廷へ持ち込んだ女性とされるカトリーヌ・ド・メディシスとか、のちにやはりメディチ家から後妻を迎えて、その祝賀行事がオペラを生んだということになっているアンリ4世とか、ヨーロッパの舞台芸術誕生の立役者たちが登場するのだから、お気楽なブルジョワなりのやり方で、今自分たちが楽しんでいる舞台の起源を舞台上で再現する感じにもなっている。(少し前の社会学風評論で流行った「再帰的近代」ってやつですか?)

ワーグナーが、北欧神話から、人間関係・血縁関係がゴチャゴチャして、しかも見ていると身につまされる感じがしてしまう話を作ったのは、オペラ・セリア(古代神話)とグランド・オペラ(王朝史)をまとめて退治するぞ、ということだったんでしょうね。「オランダ人」、「ローエングリン」、「タンホイザー」でウェーバーのロマンティック・オペラに勝った=ドイツ国内予選突破、と思っていたに違いないので、次はヨーロッパ・リーグ優勝を目指したんでしょう。

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今の日本の学校で教わる世界史は「頑張って日本も近代化しよう」と一生懸命だった時代に大枠が作られているから、外国のことを語るときにも、どこで近代が始まったか、というところに重点を置くようになってますよね。

ヨーロッパだったら、ルネサンスがあって市民革命があって産業革命だ。

他にも、第二次大戦で日本は負けちゃったから、戦争に勝つとどういういいことがあるのか、羨望とともに臥薪嘗胆で学んでおこうということで、ウェストファリア体制でナポレオン戦争で国際連盟でヤルタ会議だ、というように、勝った国が戦利品を分け合う話を語り継ぐことに力を入れたり、

革命をやりたくてたまらない人たちがインテリさんのなかで数はそれほどではないけれども声が大きいから、ローマ皇帝のキリスト教弾圧とか、魔女裁判とか、宗教改革とか、ビスマルクの飴と鞭とか、スペイン市民戦争とか、民衆が虐げられるシーンを強調する、というのがあるにはあるけれど、

やっぱり「近代以前」と「近代」の間に一番太い線を引くことになっているようで、だから、そういう風潮を逆手に取って、「実は中国は宋代から近代だった」みたいな話をノーベル賞級の大発見のように売り出す人が出てきたりもする。

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でも、これってなんだか、誰それはもうロスト・ヴァージンだ、チェリーボーイじゃないんだ、みたいなことをお互いに噂しあって盛り上がってる思春期の放課後みたいですよね。

「あの国はもう近代なのに、うちはまだ……。でも、隣の幼なじみのこの国だって、とうてい本物の近代とはいえないところがあるから、まだそれほど焦ることはない」……みたいな青春の揺れる思い、とか、

「おい、あそこの地域が遂に近代になったらしいぜ。こないだ俺も行ってきたんだけどさあ、そりゃもうすごいのなんの、あんなことやこんなこと、近代はいいらしいぞ」という情報に教室は蜂の巣をつつく騒ぎ、「くぅー、オレも早く近代になりてぇ〜!」などと口々に言い合う傍らで、ふん、と醒めた表情の女子一名。実は彼女は……、とか(←話が変わってきている)。

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どうやら、昔の王様とか、日の出の勢いで成り上がっていた頃のブルジョワさんは、まだそういう話法で歴史をとらえることをしていなくて、「キリスト教以前の理想郷、ただしそこでは、ヒトもカミも、自意識を欠く放埒なケモノ状態」vs「キリスト教以後の原罪を背負う人間たちの苦悩の日々」という西暦上の紀元前と紀元後、B.C.とA.D.の間の越えることの出来ない深い溝を、相変わらず歴史の一番の区切りと考えていたような気がするんですよね。

そしておそらく、グランド・オペラが越えられない深い溝の「こちら側」で制作されるようになったのは、当時としては画期的だったのでしょう。

新しいことは、「神ならぬ人間」の世界においては、たいてい、こんな風にいかがわしげにスタートする、人間が自分たちの姿を写す鏡は、通常それほど美しく崇高ではあり得ない、ということですかね。