「○○だったらしい」で済むなら報告・報道は要らない

「よかったらしいよ」という不確かな噂が、いつの間にか「あれはいい演奏会だった」という断定同然に扱われ、伝聞が断定にすり替わる。そんなことをする権利は誰にもない。

何様か?

事件が起きると「当事者意識の欠如」という非難がしばしば出るが、その場にいなかったという厳然たる事実を曖昧に忘れてしまうのは、自分が当事者ではないという認識の欠落、「非当事者意識の欠如」と言うべきではないか。

「私は先の戦争の死者であり得たかもしれないけれど、実際には死ななかった」という死者と生者の断絶だけで一生を過ごした断絶男・三善晃((c)片山杜秀)に謝れって話だ。