ヒトをつくる

前の記事(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20140625/p2)の補足みたいな話だが。

「野次」が「不規則発言」と呼ばれたり、「差別」が「ハラスメント(嫌がらせ)」と表記されたり、閉鎖的な組織・団体内での「犯罪」を「イジメ」とかわいく言い直すのに似た言い換えは、普通にありすぎて今更驚くのが難しくなっているけれど、

ヒトをつくる営みは、その種の言い換えで二重三重に鉄壁に護られているようだ。

まず、目的語の「ヒト」のほうは、つくられてからしばらくの間は、ヒトではなく「子」と呼ばれる。そしてこれを「子供」と書くのは、供の字の意味が気に入らないというので「子ども」と書かねばならぬと追い打ちをかけられる。

次に、動詞の「つくる」のほうは、産む、の語を使う。しかも、産む、と、生まれる、というように、つくる側から言うときと、つくられる側から言うときで漢字を使い分けろ、というようなことになっている。

実に微細にあれこれのお作法のある重大で特殊で特別な行事扱いになっているわけだ。

まあ、わからないではないけれど、ガチガチに作法を固めて、それ以外にない、という風にしてしまうのはいかがなものか。

「モノをつくる」と「ヒトをつくる」は、こんな風に似た言い回しにして、案外似たところも色々あるじゃないか、と考えてみてもよくはないか。

どっちも、本当にやろうとすると、前や後のあれこれを含めて考えると5年、10年、20年費やさないとうまく稼働しない総合事業なのだ、とか。

それから、

  • 私は「モノをつくる」、そして「ヒトもつくる」(作れるものは何でもつくりたい!)というタイプ
  • 私は「モノはつくる」が、「ヒトはつくらない」(モノのことで手一杯!)というタイプ
  • 私は「モノはつくらない」が、「ヒトはつくる」(ヒトが大好き! ヒトの絆があればモノがなくても大丈夫、のはず!)というタイプ
  • 私は「モノはつくらない」、そして「ヒトもつくらない」(何もつくりたくない!)というタイプ

どれが良くてどれが悪いということではなく、この程度に場合分けして、それぞれの類型の違い、みたいなことを考えてもいいんじゃないか。