アマオケ的なもの

ピアノのような鍵盤楽器で音楽に親しむ人と、ヴァイオリンや管楽器などの旋律楽器で音楽に親しむ人では、音楽を眺める「角度」が違うことがあるように思う。

プロの指揮者でも、オーケストラをまとめるときに、「鍵盤楽器風」のアプローチと「旋律楽器風」のアプローチがあって、特に日本の指揮者の場合、そのどちらかに偏ったスタイルをなかなか克服できずに苦労することが珍しくないように思う。

(具体名は挙げないし、上の記事で名前を出した二人の指揮者の話とも、直接の関係はない観点です。)

一般的な傾向として、鍵盤楽器風に音楽を「つかむ」ことができたほうが、聡明かつヨーロピアンな雰囲気を醸しだしやすく、旋律楽器の発想で演奏を組み立てると、(日本の伝統的な音への接し方と相通じるところがあるということなのか)俗受けするが、その先へ進むのが大変になる、という感じがあって、でも、どちらにしても、そこにとどまっていると頭打ちになるようだ。

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それとは別に、クラシック系音楽ライターというのは、アマオケ(ほぼ学生オケ)出身の人が少なくないらしい。いい大学には立派なアマオケがあって、そういう人たちはいい大学出てるから、文章書いたり、取材したりというタイプの仕事をこなせるだけの足腰があり、そういう仕事に入りやすい、ということなのだろうと思う。

(日本の音楽批評は、ほぼ帝大生がはじめた、と言える。音楽学者が参入するまでは、これがほとんど唯一の道だったわけだし、由緒正しいキャリアデザインなのだと思う。)

でも、オケの「中の人」の意識、「中のこと」に詳しいタイプには、それゆえの強みとともに、弱点もあるような気がする。

例えば、指揮者とか演出家とかの「音楽の管理職」に対して、別次元の存在として仰ぎ見る一方の態度と、俺たち私たちとは違う世界の人間として、気軽に無責任に放言できてしまう態度が、表裏一体でジキルとハイドのように絶えず反転する感じになっちゃう言説というのがあると思うのですが、

そういうモノの良いかたって、ものすごく「中の人」な感じがする。

で、その発言者がアマオケ出身だったりすると、「ああ、やっぱり」とか思ってしまったりする。

はい、もちろん、偏見ですけどね。

でも、だからダメとか言うのではなく、アマオケ的なものがどこへどういう風に広がっているのか、一度、可視化しておいたほうが今後何かと都合がいいんじゃないのかなあ、ということは思う。

吹奏楽は、随分とどういう活動なのかが見えやすくなっていて、現状では、むしろアマオケのほうが、当たり前に知ってる人と、一生知らずに過ごす人の落差が大きく、「サブカルチャー」度が高そう。話題として取り上げる「狙い目」感があるような気がします。

(プロオケの定期演奏会のあとなんかに、下級生がホールの前でチラシ配りをする姿は、コンサートへ行ったことのある人だったら、誰もが必ず見ているはず。)