その作品を「改悪」したのは誰か?

一見、前のエントリーと反対のことを書くようだがそうではない。

川島素晴が宮沢賢治の童話をもとに書き上げたナレーションと室内オーケストラのための作品(旧作を一部改訂したとのこと)は、真剣に読み込んで、より条件の良い場で再演する価値のある作品・テクストだと私は思う。

この楽団はこの作曲家に小さな仕事をこれまでにもいくつか依頼しているが、彼が最初から最後まで明確なコンセプトにもとづいて書き上げた譜面=「作品」をまともにプログラムにのせたのは、ほぼ、今回が初めてといっていいのだから、これは、居住まいを正して受け止めるべき希有な機会であったと思います。

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これまでにも、フルート奏者がオケに悪戯をする作品をかなり前に上演しているが、彼の初期の代表作のアイデアを発展させる大作が期待されながら、気負いすぎたのか完成が遅れに遅れて、いまいち幸福なお披露目にはならなかった。(今回、冒頭で展開された小芝居は、そのときのことを今頃になって蒸し返す指揮者の「イジワル」なので、見ていてちょっと嫌な気分になった。)

前回は尺八協奏曲が上演されたが、これは、action-music というハンドル名を使う作曲者らしく、音と動作の関係に焦点が当てられ、ソリストの動きに反応して奏者が音を出す場面があって、結果的に、作曲者が楽譜の形でパフォーマンスの時間を終始事前に設計・制御する形にはなっていない。この楽団では珍しく作曲者自身の指揮で初演され、演奏は悪くなかった。

一方、今回の作品は、台本を朗読するナレーターの声を室内オーケストラ(動物の謝肉祭と同じ楽器編成で、なおかつ、チェロ協奏曲にもなっている)と絡み合わせることが課題として設定されて、ナレーターの声は音程やリズムが(おそらくかなり緻密に事前に設計・指定されており)、次第に「音楽」へ編み込まれていく。

音と動作の関係を探究する作品群では、楽譜のなかに「動作依存」の別次元がいきなり割り込み、いわば人間のアクションが音楽の時空を歪めるわけだが、今回の声と室内オーケストラの作品は、通常、「台本」(文字の連なり)のみを渡して、ピッチ・声色・間などは演者任せになることが多いナレーションが、ときにはスコアのなかの一段になり、ときには普通の意味での朗読者になるというように、音楽の内と外を出たり入ったりする。そしてそのあり方が、夜中に人間にちょっかいを出す動物たちと重ね合わされている。

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このように作品のコンセプトを読み取ることができれば、プレイヤーに求められていることが「いつもとは違う」のも、自ずと明らかだろう。

音と動作の関係を探究する作品では、音楽的時間に介入するべく、ヒトが音楽を斜めに横切って動かなければ、作品は活性化しない。いわゆる「即興性」や「行動の主体性」が積極的に求められる。

一方、語りが音楽の内と外を出たり入ったりする作品では、今自分が音楽の内側にいるのか外側にいるのか、次第に音楽へ接近しつつあるのか、音楽から遠ざかりつつあるのか、音楽と語りという両極の間で、おのれの「立ち位置」を常に正確に把握して、しかるべく発音・発声しなければならない。そこに求められるのは、室内楽に近い意味でのアンサンブルであって、いわゆる「即興性」や「行動の主体性」をふりかざすと、危ういバランスが壊れる。

この種の作品では、プレイヤーは楽譜から「作者の意図もしくは狙い」を正確に読んで、しかるべく対処しないとまともに作品が成立しないわけだから、むしろ、古典作品を演奏するときに近い構えでやれるはずなのです。

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しかるに今回の上演はどうであったか?

オープニングで指揮者が威張る小芝居は、ここまでに検討したような作品のコンセプト(と推察されるもの)とは何の関係もないところで展開していたし、作品のキモであるところの、ナレーターが次第に「音楽」に編み込まれていくプロセス(あるいはここでは詳述しないが、作品のもうひとつの狙いであると思われる「間違った演奏を正確に作曲する」というユーモラスな倒錯)は、杓子定規な演奏ゆえに、いまいちちゃんとアピール、プレゼンテーションされていないところが残った。

映画に喩えれば、よくできた台本なのに、カメラ割りがぞんざいなせいで見たいものが見えない。今回の上演のもどかしさは、そういう性質のものであったように思う。

指揮者が悪いんじゃないか。

指揮者が、作品のコンセプトを正確に読み取ることなく、「童話の面白いパロディ」と思い込んで、そっち方向へ無遠慮に手を加えつつ突進した結果、ああなったのではないか。

(ナレーションは大して重要ではない、と思っているかのような姿勢は、大事な箇所のナレーションがオーケストラの無遠慮な演奏とカブって、何を言っているのか、まったく聞き取れなかったことに、端的に表れていたのではないだろうか。あれは酷かった。)

ブルックナーの生前は、ニキシュや大物ワグネリアン指揮者たちが威張っていて、彼らが気持ちよく演奏できるように交響曲の総譜をズタズタにしたことが知られている。

あれと似たことが起きていないか。

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さて、そしてそのような事態に陥ったときに、それじゃあ、どうすればよかったのか。再発防止策はあるのか?

まず考えられるのは、これがどういう作品なのか、当然わかっていたはずなのだから、現場を監督していたはずのスーパーヴァイザーがやり過ぎをいさめることはできなかったのか、ということだ。

音楽監督がリハーサルに立ち会ったんでしょ?

でも、ひょっとすると、

「これも作曲家なら誰もが通る試練。どこまで譲るか、どこで主張を通すか、自分の作品のことは自分で切り抜けろ」

と突き放して見ていたのかもしれない……。

音楽監督氏は、トークコーナーでいきなり、「もうかりまっか」とカマして、作曲者氏がその種の大阪的当意即妙に慣れていないことを公衆の面前で暴露しちゃったり、どうやら、後進の作曲家に対して、結構イケズであるようにお見受けする。(俺より先に大阪弁使いやがって、と、嫉妬もあったか?)

……だったら、こらもう八方ふさがり、処置なしですわ(笑)。

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大阪の大物芸人は概してイケズである、というのは、中村鴈治郎/坂田藤十郎の家の雰囲気とか見ていると、まあ、そんなもんなのかもしれないねえ。

キツいけど、負けずに頑張りや、と言うしかないのかねえ、自分で選んだ芸の道やし……。

でも、もしここまでの考察が的外れではないとしたら、それは、この楽団におけるこの作曲家への処遇が、なんだか「イジメ」めいている、ということになってしまい、ちょっと困ったことではある。

実際がどうなのかは、知るよしもないので、あくまで、個人の、杞憂であることを強く願いつつの想像に過ぎません。

そしてそんな風にはなっていないことを祈りつつ、わたくしとしては、念のため、本当にそうであったら嫌なことを予防する意味合いで、イジメ対策の王道とされる対応を表明しておきたいと思います。

私は川島素晴を一人前の作曲家だと認めるし、彼がやりたいと思うことは全面的に承認して、それを阻む者がいれば、抗議する所存でありまする。作曲家は、そのように敬意を払われてしかるべき職業だと考えるからです。

新垣隆を全力で護った川島素晴が、今年はあちこちで自作を世に問う勝負の年であるらしい気配があるのだから、彼の力を認める人たちによって、今度は彼が護られていいと思う。ヒトとしての権利の問題として。

(2014年夏に日本の現代音楽で力のあるイベントを企画するとしたら、本当は「三善晃を偲ぶコンサート featuring 新垣隆」を大変でも誰かがやるべきだったと思うんですよね。すぐには表に出られないかもしれないゴースト氏への応援票の意味も込めて、川島素晴を今回は「推し」です。

指揮は最悪自作自演という手もあるが、作曲家は、その人しかできないことをやるのであって、ツブされたら代わりはいない。生身の人間なんだよ。)