引用は、出典が永遠不滅ではないからこそ、出典への手がかりを残そうとするのではないだろうか?

引用されている文が最初に作成されたときから現在までのすべての更新履歴が、引用文にメタデータとしてくっついてくるのであれば、引用元へのポインタは不要かもしれないが、いちいち、そんな巨大なデータをやりとりする時代が来るかどうか、私にはわからない。

だいいち、どのようなデータ形式を採用すれば、全更新履歴のメタデータなどというものがポータブルになり得るか。実現可能性は薄いんじゃないだろうか。だってそれってほとんど、すべての過去が死なずに現在まで生き続けている状態と同義だもの。

ひとつひとつの引用の向こう側には巨大な過去が広がっていて、その過去は、既に今はもう、ここにはない。

ヒトは、過去という概念をもっている。

既に今はもうここにはない、という状態をすべて捨てて忘却するような文化が安定して存続する、というきわめて非現実的な想定をしないかぎり、引用にその由来の手がかりをくっつける慣行がなくなることはないんじゃないだろうか。

(逆に、「すべての引用は聖書からなされねばならない。聖書以外を引用してはならない」というコミュニティがあったとしたら、出典は聖書以外にないのだから、いちいち出典が表示されることはなくても大丈夫でしょうね。そんな「ザ・ブック」の君臨する空間で、知が生きながらえることができますか、という話にもなりそうですね。

あなたはそれでもいいかもしれないが、私は嫌だ。

日常性の哲学としての分析哲学が、現状肯定の惰性・慣性の働く空間で作り出す「極端な仮定」が全然極端でも何でもなくつまらないのは、こういうところだ、と私は思うのだけれど……。妙にスコラ哲学と親和しちゃったり、とか。)