学位は変動相場である

外国の大学へ留学しようとして書類を取り寄せたりしたことがある人ならわかると思うが、高等教育制度は国ごと大学ごとに様々なので、どの国とどの国の修士号しかうちの国(大学)ではM.A.とは認めない、とか、通貨の為替市場みたいに学位読み替えの規定がある。

私費で個人で外国の大学へ入学を目指すときにはこれに従う。

とはいえ、あらゆる国のあらゆる大学の学位相場を綿密にランキングするほどのことではないので、細かいところは物々交換に似た当事者間の裁量で決まる。個人の私費留学だと、そこのところの交渉を自力で闘うことになる。そして送り出す側が、留学生を裸で放り出すわけにはいかぬと考えた場合には、まず大学と大学の間、研究室(の教員)と相手側研究室(の教員)の間などで交換留学の取り決めを文書で交わしたうえで、実際にそれじゃあこちらかあなたのところへ誰それを送ります、みたいな手順を踏む。

これが制度として大がかりになったのが、国費留学とか名の通った留学制度なのだと思う。

……というわけで、ある機関の学位認定がいいかげんになって困るのは誰なのか、という話を、あたかも世界共通統一規格としてのPh.Dというものがあって、あなたのやっていることは、世界共通統一規格に対するルール違反だ、いってみれば、国連憲章や安保理に楯突く「ならずもの国家」のように世界で孤立する道を選ぶことなのだ、みたいに言うのは、さすがにちょっとおかしい。学位はそこまでたいそうなもんじゃない。

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それじゃあ、この学位という変動相場でそれぞれの大学がどう生き抜いていけばいいのか。これはそれぞれの機関で考えていただく良い機会だと思うので存分にやっていただけばいいわけで、

しかし、それとは別に、学位をゲットするべく申請する側がどう考えればいいか、という話が残る。

そうすると、(これは今更言わなくても、みんな実際はそういうことを考えてそれぞれに行動しているのだと思いますが)学位取得を目指すのは、作家になるために文学賞に応募するのと、基本の構造はそれほど違わないと思う。

一定の設置基準があるから、文学賞ほどのヴァラエティはないし、多くの文学賞のように一発勝負ではなく、所定の単位を取得してから審査を受ける数年がかりの課程だけれど、文学賞だって所定の雑誌に掲載された作品のなかから選ぶのがあって、そうした場合は、いきなり賞を狙うのではなく、それなりの(場合によってはかなりの)下準備の手間と時間が必要になる(のだろう、と、文壇の具体的なことは知らないけれども傍目にはそう見える)。

あるそれなりに立派そうに見える文学賞に、「なんでこんな作品が選ばれたんだ」みたいなことは時として(あるいはしばしば)あるのだろうし、あとからその作家や作品が何らかの問題ありだったと発覚することだってあるだろう。日本有数の歴史をもつ私大が特定の学位論文について、今回、事後的にその適否を再検討したのは、それに近いことなのだと思う。

文学賞の受賞・贈賞が何年も経ってから撤回された事例がどれほどあるのか、よく知らないけれど、様々な理由・事情で、あとで問題が発覚しても撤回には至らないケースだって、きっとあるんだろうと思うし、だから、当事者にとっては大きな問題ではあっても、世界を震撼させる一大事かというと、これだけを取り出してそういう風に言うのは、きっと大げさ過ぎるのだろう。

応募するほうは、そんな感じに「名前」に傷が付いた文学賞(大学)に、それでも一定の価値を認めて応募するか、予定を変更して他の賞(他大学)を狙うか、それぞれで考えたらええんとちゃうの。

そしてそもそも、「なぜ学位を求めるか」は、「なぜ文学賞を狙うか」と同じくらい動機や理由が人それぞれですよね。肩書きを得れば世間を渡っていきやすくなる、と期待する人もいるだろうし、この審査員(指導教官)に自分の作品(論文・研究)をアピールしたい、ということもあるだろうし、とりあえず自分の力がどれほどのものか試したい、ということもあるだろうし、時間や生活に余裕があるから、長い人生、ときには文学(研究)で一定の時期を過ごすのも悪くない、というエピキュリアンもいるだろうし。

まあ、およそ「国家戦略」とか、そんなもんで全体に網をかけることのできる話ではありませんわ。

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で、日本で今この時期にこれが妙に話題になるのは、

ちょうとひと頃、地域振興の一環として全国津々浦々にご当地にちなんだ文学賞が乱立したように(今のユルキャラみたいなものですよね)、うちに来てくれたら学位を授与しますよ、と募集をかける大学と、それを支援する様々なしくみが過去20年で急増した、その流れをさすがに見直した方がいい、という頃合いだからでしょ。

紙幣が市場にたくさん出回りすぎて、為替相場で円が弱くなっちゃってるから、てこ入れが必要かも、みたいな話だ。金余りが景気などに影響を与えるように、学位を乱造すると、これを運用して色んな悪巧みをする人が出てきたり、副作用が色々ありそうだし……。(実際、オボが問題視されている本命は、学位そのものじゃなく、それを踏み台としてそのあとに起きたことですよね。)

こういうタイミングで円を買う(学位取得を目指す)かどうか、というのも、相場の関係者(大学関係者)の思惑とは別に、最後は、個々人で判断することだろう。

紙幣と同じく、学位だって、変動相場なのだから、情勢によって、あっという間に紙くず同然になることはあり得るわけで。

(……と考えていくと、理研問題で経済新聞が鋭い記事を書いたのは、畑違いではなく、変動相場に国家予算と政治が絡んであれやこれや、という領域の泳ぎ方はうちの得意分野です、ということかもしれませんね。)