人間臭さを拒絶した音楽とその結末

近藤譲《線の音楽》

近藤譲《線の音楽》

  • アーティスト: 近藤譲,高橋悠治,篠崎史子,小泉浩,山口恭範,高橋アキ,佐藤紀雄,篠崎功子,篠崎正嗣,永島義男,志村菊夫,曽我傑,川合良一
  • 出版社/メーカー: ALM RECORDS
  • 発売日: 2014/07/07
  • メディア: CD
  • この商品を含むブログ (4件) を見る

作曲者解説では「拒絶の音楽」がキーワードになっており、何を拒絶しているかというと人間主義の拒絶である、というわけだが、それが何を指すかについては、様々なレヴェルでの解読が可能であるように思う。

敢えて俗っぽく考えるとしたら、1970年代の時点でこれを言うのは、60年代の現代音楽が「人類の進歩と調和」という高邁で華々しいお祭りを打ち上げるに至ったことへのアンチと読むことができそうに思う。

「同時代性」や「未知への探索」を標榜した数々の取り組みが、実際には、うんざりするほど「人間臭い」ことでしかなかったのではないか、と、先行世代をクールに突き放すかのようでもあり、最小限の音をポンと置くことで状況を一変させてしまう感じは、ものすごくかっこいい。

ーーーー

と同時に、面白いな、と思うのは、そんな近藤譲に強い刺激を受けたに違いないと思う細川周平などのさらに次の世代の人たちが、もはやヨーロッパの手法や発想を土台とする音楽から解放されて、世界の音楽というか地球の音楽をあまねく軽やかに散策するようになったこと。

そうして、とんがった人たちから見捨てられちゃったのかな、もう、終わったのかな、という雰囲気が漂っている「現代音楽」が、最近では、フィリップ・ロスや片山杜秀によって、むしろ、そこに渦巻く様々な人間たち込みで語り直されつつあるように見える。

フワフワと天高く舞い上がる風船を近藤譲がパチンとはじいたら、「音楽」が世界中に伏姫の8つの玉のように飛び散って、足下には愛すべき人間たちのうごめきが残った。

そう考えればいいのかもしれませんね。

(現代音楽の旗手がひとたび人間臭い音楽を書いたときの「体臭」は、結構、きついものではあるけれど。)

「肌色」の憂鬱 - 近代日本の人種体験 (中公叢書)

「肌色」の憂鬱 - 近代日本の人種体験 (中公叢書)