名前と肩書き

何かを調べて確認したわけではないが、私の漠然としたイメージでは、「生国と名前」くらいしか名乗るべき事柄をもたないアウトローの外れ者が一宿一飯の恩義で身を寄せた親分のために命を張るのが任侠の仁義(高倉健/マキノ雅弘的な)で、高度成長期の会社に似た非情の論理で名乗りも何もなく、いきなり鉄砲玉が命のやりとりをするのが組織暴力団(菅原文太/仁義なきシリーズ的な)なのだと思っていたのだが、任侠は組織名を名乗るものである、という風に両方がごっちゃになって理解されているようなので、そんなことは、今はもうどうでもいいのかもしれない。

学会で発言するときに名乗ることが求められる「所属」というやつは、大学名ではなく、支部名程度だったりしたような記憶があるので、私の感覚ではそれはむしろ、役職とか肩書きとかをひとまず括弧に入れた個人が任侠に似た仁義で挨拶を交わす場であり、組織暴力団風に学会の場で「学閥」が仁義なき抗争を繰り広げているわけではないように思っていたのだけれど……、

ひょっとすると、今どきの研究者さんたちは、学会などで有名な先生が歩いているのを見ると、ちょうどテレビ番組に学者が登場したときのテロップ(○○大学教授)みたいなものが、(さらにはデジタルなテレビの文字情報みたいにそれぞれの先生の略歴・業績・師弟関係・交友関係等々までもが)その先生の姿と重なって「見える」のだろうか。

その域に達していないと生き残ることの出来ない大変なところに、いつのまにかなってしまったんですかね。

(それにつれて、コンサートのロビーでも、でかい声で「○○社長、いらっしゃいませ、さあ、どうぞ。このたびは多額の寄付をいただきまして……」などと俗世の地位と権勢を露出するのが恥ずかしくない、下品でも何でもない当たり前だ、ということになりつつあると考えることができるのかもしれないけれど、幸いなことに、やっぱりそういうのは下品だ、という社交の感覚が、まだ今のところは、まっとうなコンサートには残っているような気がします。)