同床異夢:コンヴィチュニーの野望の顛末

[タイトルを変えました]

劇場は「事件」を起こす現場ですよね。

コンヴィチュニーinびわ湖の本番の発表会が近づくにつれて、本気で劇場を運用するのは、原発を稼働するの同じくらいチャレンジングな、危機管理の限界への挑戦なんとちゃうやろか、でも、だから、原発再稼働問題はさておき、自分たちの街が劇場をちゃんと動かせる力を持つ状態は維持したいなあ、と思ってしまいますよね。そういう思いがなければ、人は劇場という魔界に近づかない。(平田オリザが民主党政権の「御用学者」を買って出たのは、20世紀の少なからぬ数の物理学者がせっかくこの分野をやるのだから核分裂や核融合を実際に引き起こしてみたいと考え、国策に自ら進んで動員されたのと同じようなものでしょう、オリザさんは自らの知性への絶大な自信(とそれをいざというときまで隠す自制力)を持っていらっしゃるみたいだし……。)

私自身のことについてはひととおり整理できたような気がするので、今度は、私のことはさておき、そもそも現場にどういう人がいたのか、彼らは何がしたかったのか、ということをまとめておきたいと思います。(なんといっても、今回は、そのオリザまでもが、ドイツ文化センター主催の関連企画、公開討論会に呼ばれて、稽古場に姿を見せたのですから……。まさか、政治家みたいに直前にタクシーで乗り付けて、終わればさっさと帰るんじゃあるまいな、と思っていたら、その日は、朝から気配を消して客席で終日稽古を見ていらっしゃって、「おぬし、できるな」って感じでした。他流試合に臨む剣豪みたいだった。さすが、内田樹のオトモダチっすね。)

同床異夢とまで言うと誇張が過ぎるかも知れませんが、それぞれの人がそれぞれの立場でリハーサル室に集まって、決して「一枚岩」ではなかったように思えるので、はっきりさせておいたほうがいいし、その構図を確認しておくことが、きっと「今後」へつながると思うからです。

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現場の中心にいたのは、もちろん、コンヴィチュニーですが、アルファベータの本の最初に引用されている2011年の Opernwelt のインタビューで日本における教育活動の抱負を語ってから、今回の稽古の終盤で、ふと、客席に向き直って、「Meine Damen und Herrn ご臨席の皆様、今まさに見ていただいたように、歌手は演出家が Vorgabe [初期設定、のようなニュアンスかと思う]を示すことで成長します、日本の皆さんは、これから、そんな演出家をどう育てていこうとするのですか?」と問いかけたところまで、日本でやったこと、やろうとしたことは一貫しているような気がします。

要するに、彼は本気で演出家養成コースを作るつもりで日本に来たし、一連のアカデミーはそのスタートアップであると位置づけていたと思います。受け入れ側の体制や陣容は来る度に少しずつ変化したけれど、彼が設定したミッションは、たぶんまったくぶれていない。

びわ湖に来る1年前の2009年には、(私は事後の記述からそういうのが始まりだったんだ、と知っただけで、具体的にどういうものだったか、はっきりとはわかりませんが)東京でのミニ・ワークショップ的な歌手への指導の実演と東京・大津での講演会があって、2010年のびわ湖の1回目の「蝶々夫人」も、関係者の発言を照合すると、受け入れ側は、同じようなことをするんだろうと思っていたら、そうじゃなくて、どうやらコンヴィチュニーは、最初っから、劇場機能をフルに使った作品まるごとの制作をやるつもりだったみたい。「次は劇場でやりたい、作品は蝶々夫人」と、そこだけリクエストして、人と場所さえ確保してくれたらそれでいい。現場にオレが行けば、あとのやりようは、なんとでもなるし、それを見せるのが次の課題だ、という心づもりだったように見えます。つまり、ゼロから、そこにある/いる人とリソースでなんとでも仕上げてみせるのが演出だ、みたいなことだし、その成果・規模を徐々に大きく発展させていく心づもりだったと思います。

そして体調不良で1回休みになったときに、ちゃんと「補講」をして流れを切りたくなかったのも、単発ではなく、最終的には常設の講座を開設するようなところまでの流れを作ろうとしたからだろうと思います。

で、コンヴィチュニー自身はそういうつもりだったのだろうけれど、果たしてそれは、本当に実現可能なプロジェクトなのか/だったのか、彼の野望とミッションを日本側はどのように受け止めたのか、という視点で見ると、一連のアカデミーの、記録にするとちょっとゴチャゴチャしているようにも見える歩みを理解しやすくなりそうです。

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まず、コンヴィチュニーの日本における教育活動の主催者等々の「座組」がどうなっているか、に着目してみます。

2009年にこういう催しがあって(主催者等の表記は受講生募集要項による)、

  • 2009年6月2〜4日:昭和音楽大学、5〜7日:東京藝術大学、「ペーター・コンヴィチュニー オペラ演出ワークショップ」、主催:東京藝術大学、昭和音楽大学、ドイツ文化センター、協力:(財)東京二期会、(財)日本オペラ振興会
  • 2009年6月8日:びわ湖ホール 小ホール、「ペーター・コンヴィチュニー オペラを語る」講演会 [主催者等のデータ不詳]

次の2010年のびわ湖ホールの「蝶々夫人」の募集要項はこういう表記。タイトルが同じなので、前年に東京でやった催しの2回目をびわ湖でやる、という枠組みだったことが推察されます。

  • 2010年7月31日〜8月6日:びわ湖ホール リハーサル室、「ペーター・コンヴィチュニー オペラ演出ワークショップ」、主催:財団法人びわ湖ホール、昭和音楽大学、ドイツ文化センター、協力:大阪音楽大学

2011年の「ボエーム」は、びわ湖ホール芸術監督の沼尻竜典さんが指揮で参加した回で、催し物の名称に、はじめて「アカデミー」の語が入ります。びわ湖ホールと昭和音楽大学が連名で主催となっています(手元に残るプレスリリース資料による)。

  • 2011年8月3日〜12日:びわ湖ホール リハーサル室、びわ湖ホール&昭和音楽大学「コンヴィチュニー オペラ演出アカデミー in びわ湖」、主催:財団法人びわ湖ホール、昭和音楽大学、協力:大阪音楽大学

関西の音楽関係者としてこの表記をみると、昭和音大が関西で何かをやるのは珍しいですから、そこがやっぱり目を惹いてしまう。別に縄張り意識・セクショナリズムという意味ではなく、表看板にこういう形で大きく大学の名前が出ると、「東京主導の企画なんだな」と印象づけられてしまうのは、広報の効果として、やむを得なかったのではないかと思われます。

ただし、発表会に行くと、顔見知りの歌い手さんが何人もいて、当時の大阪音大のオペラハウスの館長さん(声楽の先生です)も来ていらっしゃったので、大阪音大の「協力」は名目だけじゃないんだろうな、という印象を持ったのを思い出しました。良い形で関東・関西のオペラ関係者が交流する場になれば、それはいいことなんじゃないか、と思ったです。

そして惜しくも中止になった2012年の「魔笛」の募集要項は、次のような表記で、びわ湖ホールが単独主催。様々な助成を得て、このときも沼尻さんが指揮者で参加の予定がアナウンスされていますから、3回目にして、びわ湖ホールがコンヴィチュニーとの共同作業に本腰を入れた、と見えますね。

  • 【中止】2012年7月30日〜8月8日:びわ湖ホール リハーサル室、「コンヴィチュニー オペラ・アカデミー in びわ湖」、主催:公益財団法人びわ湖ホール、協力:大阪音楽大学、昭和音楽大学、支援:平成24年度文化庁優れた劇場・音楽堂からの創造発信事業、助成:公益財団法人野村財団、財団法人朝日新聞文化財団、後援:ドイツ文化センター
  • 2013年3月25日〜28日:びわ湖ホール 小ホール、「コンヴィチュニー オペラ・アカデミー in びわ湖」、主催:公益財団法人びわ湖ホール、助成:文化庁、公益財団法人野村財団、公益財団法人朝日新聞文化財団

催し物名は、びわ湖ホール単独主催になったときにようやく、「コンヴィチュニー オペラ・アカデミー in びわ湖」と確定したようです。

1年順延になった「魔笛」は、前年のオーディション合格者からキャンセルが出て、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーが穴を埋め、ややコンパクトなものになりました。沼尻さんも指揮台には立っていません。

  • 2013年8月3日〜12日:びわ湖ホール リハーサル室、「コンヴィチュニー オペラ・アカデミー in びわ湖」、主催:公益財団法人びわ湖ホール、協力:大阪音楽大学、昭和音楽大学、支援:平成25年度 文化庁劇場・音楽堂等活性化事業、後援:ドイツ文化センター

そして最終回「椿姫」の表記は以下の通り(発表会プログラムより)。

  • 2014年7月30日〜8月8日:びわ湖ホール リハーサル室、「コンヴィチュニー オペラ・アカデミー in びわ湖」、主催:公益財団法人びわ湖ホール、協力:大阪音楽大学、昭和音楽大学、支援:平成26年度 文化庁劇場・音楽堂等活性化事業、後援:ドイツ文化センター

主催・協力・助成などの催し物の枠組みも、びわ湖ホールの単独主催になったあとは安定して同じスタイルを維持できているように見えます。

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でも、ここまでは公開資料に表示された事実・データで、ここからは、それにもとづきつつ、あくまで私個人の勝手な推測・考察ですが、催し物の枠組みが安定したのは、裏を返せば、「ここから先へは行かない」「この枠組みの延長での事業の拡大は難しい、もしくは、考えていない」ということでもあると思うんです。

もし、びわ湖ホールのようなフル装備の劇場が演出家の養成を事業としてやるとしたら、声楽家養成のためのアンサンブルを持っているような形で、オペラ演出部のようなものを組織に組み込むのが王道だろうと思う。

でも、そうなると、有給で雇用するにせよ、養成コースとして、受講生を1年や複数年の期間で募集するにせよ、現行の「アカデミー」とは比較にならない様々なものを準備しないといけないですよね。座学的なものも必要かもしれないし、講師だって、コンヴィチュニーひとりに頼るのではなく、2012年の「魔笛」のように彼の都合がつかなくなったときには、代替えで何かをやり続けられるようになっていないとマズい。そこまでのことを、現状のように各種補助金を集める形でできるとは思えないし、常識的に考えて、組織の改編や拡張を伴うような新機軸は、別の手順で粛々と進めないと実現するもんじゃないだろうというのは想像がつく。(「だから、お役所はダメなんだ」ということではなく、そこをいいかげんにすると、結局、辻褄が合わなくなって、あまりみんなが幸福になれないんだと思います。)

歌手の養成(声楽アンサンブル)をどう充実させていくか、という既に動き始めて、徐々に成果がみえはじめているプロジェクトと、演出家の養成という新規事業を両方同時にやることができるか、というようなことも考えないといけないでしょうし……。

別に、わたくしはホールの関係者でも何でもないですが、びわ湖ホールにそこまでの大英断をリクエストするには、まだ、機が熟していないかもしれないなあ、という気がします。

もう、まったくの妄想でしかないですし、誰かに何かの取材をしたわけじゃないですけれど、ホール側もいちおうそういう可能性のシミュレーションくらいは内々でやってみて、ひょっとするとコンヴィチュニーとも、「現状維持であれば続けられるけれど……」みたいな突っ込んだ話をして、「でも、その先の展開がないんだったらちょっと……」みたいなレスポンスがあって、色々あった末の誰も極端に不幸になることのない落としどころが、5回でめでたく終了だったんじゃないかなあ、という気がします。

そしてそういう結論に至ったことは、たぶん、そもそもの出発点が、東京で藝大と昭和音大で始めた、いわば「持ち込み企画」に、できる範囲で協力しましょう、というスタンスだったこともあると思う。

前のエントリーで整理したように、講師はコンヴィチュニーが最適だ、みたいな判断とか、アルファベータの本で熱く語られているような、「コンヴィチュニーが来るんだったら参加したい」「今私たちにはコンヴィチュニーが必要だ」みたいな次代を担うべき若い人たちの声、そして、そういう声が生まれる土壌・条件が切実に積み重なっているのは、関西・滋賀ではなく東京だと思うんですよね。

嫌われたり恨まれたりするかもしれないけれど、でも、「もともと東京の人たちが望んで始めたことなのだから、最後まで東京の人たちで責任を持って育てていただくのが筋ではないでしょうか」と、やっぱり、ギリギリのところまで来ると、そういう論点が出てきそうに思います。

そして、びわ湖ホールは、現状でできるところまでは、100パーセント以上くらいにやってくださったんじゃないかと思います。

もっと続けたい、発展させたい、とあなたが望むのであれば、それは、当座の居場所を提供してくれた家主のびわ湖ホールに言うのではなく、あなたたち自身で道を切り開くべきだと思います。東海道の要所の宿場町は、旅人を暖かくもてなすことでしょう。しかし旅をしているのは、次にどこへ行くかを決めるのは、あなたたち自身です。

(……ということで、主催者の検討に続いて、それじゃあ、このアカデミーに参加したのは、いったいどういう人たちだったのか、私にわかる範囲で考えを整理したいと思うのですが、既に長くなってしまったので、ひとまず、ここまで。)