関西と音楽出版と「大きな力」

JR西日本が早々と全線運休を決めたとき、「こんなこと、この会社が自力で決断できるはずがない。裏で大きな力が働いたんじゃないか」と思いましたよね。私は、そういうことをブツブツ思いながら阪急電車でオペラを観に行った。後出しで今頃言うな、と言われるかもしれないけれど、思ったんだからしょうがない。

何がどうなっているのか、行ってみないとわからない雰囲気だったので早めに家を出て、梅田でコーヒー飲もうとしたら、「阪急三番街は本日は午後2時で閉店します」とアナウンスがあって、なんだか恐くなった。ものすごく恐かったヨ。

(「来るなら来やがれ、コノヤロウ」と思って、シャッターが降りるギリギリまで店にいたけどな(笑)。それで命を取られるわけじゃないから。)

戦後関西のクラシック音楽が特異な形態で発展したのは、色々考えていくと音楽出版(楽譜・活字両面の)が関西に存在しないのが致命的であったような気がする。他は色々やりくりできたけど、これだけは、未だに育っていない。

じゃあ、どうして音楽出版が東京だけなのか。戦前は関西にもあったのだから、昭和恐慌とかもあるだろうけど、やっぱり出版統制、国策による音楽之友社の出現の後遺症と考えざるを得ないのではないか。

(大げさなことが言いたいのではなく、「大栗裕はどうして楽譜を生前に出版しなかった/できなかったのだろう」と考えると、周りに音楽出版社がなかったから、ただそれだけのことに過ぎないけれど、「ただそれだけのこと」が後々まで効いてしまったんじゃないかと思うのです。何がどこにどういう影響を与えるか、煎じ詰めるとわからないものよ。良いことであれ悪いことであれ。

で、ヒトは死ぬそのときまでは生きているのよ(笑)。そうしたら、まあ、だいたいのところは、なるようになったりするわけだ。)