分析の後始末

大学の文系ゼミは、講読が典型だが、たいてい尻切れトンボで終わる。本の2章と半分だけ読んだところで時間切れ、とか。

あれは、「研究に終わりはないのだ」「文化は深いのだ、君たちは、そして私も、道半ばなのです」みたいに言うと、おお!となる(かもしれない)が、やっぱり、ダメなんじゃないか。

和声や対位法の作曲修行や楽曲分析もそうで、初心者がやりはじめると、「きみの行く道は果てしなく遠い」感じだけが印象づけられたりするけど、「どこで止めるか」、止めどきの勘所もあわせて教えとくのが親切じゃないか、と、さっき、授業の準備をしながら思い至った。

こういうときこそダールハウスが役に立つ。この人の体系的音楽学や音楽分析に関する仕事は、「そこから先は進んでも泥沼」というポイントを上手に指摘しているところがあって、そういうのは、あまり他に類例がないように思うんですよね。

分析の「止めどき」として、理解可能性ということは割合よく言われる。こじつけの深読みをしても、聴いてわからないこと、他人のそら似で傍証のないことは、それ以上掘っても実りが少ない。対案として「潜在的なもの」「秘教的なもの」「作者の手を離れたテクストの豊かさ」云々という、終わりなき延命策もあるが、そこは一般人がうかつに立ち入る領域とは思われない。

もうひとつが「オッカムの剃刀」系の思考のエコノミーで、扱っている対象の範囲を無際限に広げるのではなく、ひとつの作品とか、ある時代とか、列挙可能な有限にしておくことが前提になるけれど、その条件下であれば、思考のエコノミーを、「より多くの証拠を説明できる仮説はよりよい仮説」という解釈の経験則と組み合わせると、「ここまでわかれば、ひとまずヨシとしよう」という勘所が見えてくる。

で、このあたりまではバカじゃない大学教授なら普通に言えることだと思うのだが、アドルノの洗礼を良くも悪くも受けてしまったダールハウスの時代・世代は、

  • ひとつのシステムに押し込むな(異物が残ることを肯定すべきときがある)

というのが習い性になっているようで、これが、泥沼の議論から脱出する最後の命綱になっているような気がします。

このあたりが、ジャーナリスティックにはハーバーマスのようにあっちこっちで論争する人ほど派手じゃないけど、「対話的理性」を使える範囲で生き延びさせたい系統の西欧インテリの20世紀後半の処世術としては、筋が良かったんじゃないかと思う。

Hans Heinz Stuckenschmidt: Der Deutsche im Konzertsaal

Hans Heinz Stuckenschmidt: Der Deutsche im Konzertsaal

注文していたのが届きましたが、ドイツ(ベルリン?)の芸術院アーカイヴが出しているシリーズで、書誌をまとめて、アーカイヴにある遺稿や手紙(シェーンベルクやアドルノ宛)を活字化して、読み物として成立するようにいくつかの文章をトピックごとに入れて、無理矢理、評伝・物語にまとめない編集がかっちょいい本だった。