武士の情けを踏みにじり……

(参考文献:「曲目解説」東条碩夫)

死の淵から帰還した井上道義とチャイコフスキーのNegative Thinking Symphony: エンターテイメント日誌

素人さん(雅哉のことじゃなく東条のことね)の作文の「中身」はとりあえず不問で済ませてあげようと思っていたのに、こんな文言を読んだら、この人の文章に引用する意味のある何かが含まれているかと誤解してしまうではないか。

まあ、音楽がはじまると夢の世界に遊ぶ人、みなさんいっしょに夢を見ましょう、という風に心の中にお花畑を育てている人なのだということはリンク先からわかったが、用いられている情報は既存の日本語文献のパッチワークで、ほとんど味付けなし、じゃないですか。大幅に参考にした書物を(注)という形で挙げることで剽窃と言われない保険をかけてはいるけれど……。

(ちなみに雅哉は、森田先生の「新チャイコフスキー考」を直接読んだのではなく、東条がチャイコフスキーの手紙の有名な一節をプログラムに書き写しているから、それを孫引きしただけでしょう。まぎらわしい書き方してはいけない。

[あと、これは誰か大植英次に伝言して欲しいのだが、彼がいつも持ってきて、作曲家の「自筆譜」と呼ぶもの。あれは、私家版だったり希少本だったりするファクシミリですからね、当然ですが原本ではない。まあ、みんなわかるからツッこまないで、温かく見守っているけれど……。]

森田先生の本には、メック夫人宛の手紙がもっと膨大な分量訳出されていて、チャイコフスキーがこの曲のここはこうだ、と、細かく具体的に説明していることがわかる。そのことを踏まえると、東条の文章は、森田先生が訳出した手紙の引用・料理の仕方も稚拙で、学生のレポートだったら、あまりいい点数つけられそうにないし、今回の作文は、全体に読み物としても平板じゃないか。)

[一般に井上道義のコンサートの曲目解説は、日本語で文献がほとんどなかったり、通り一遍の情報しか得られない作品を取りあげることがよくあるので、執筆者泣かせです。しかも、彼が知っていることを執筆者が知らなかったりすると、舞台にマイク持って登場して、「解説には出てこないけど、こんな話があるんです」と言っちゃう人ですからね。(死んだ岩城さんもそうだったが。)東条は、ミチヨシのそういうところを知っていて、恐いから通り一遍のこと書くだけで逃げたんじゃないかと私は推測する。根性なしじゃん。楽屋雀で、音楽家とはオトモダチって風を装っているくせに、サイアク!]