承前:自浄作用が問われる時代

片山杜秀の本(5)線量計と機関銃──ラジオ・カタヤマ【震災篇】

片山杜秀の本(5)線量計と機関銃──ラジオ・カタヤマ【震災篇】

もうみんな忘れてると思いますが、アルテスパブリッシングが自分のところで音楽雑誌を創刊したのは震災のすぐあとで、岡田暁生が「ようやく目が覚めた、これからはおとなしく生きることにします」みたいに宣言する座談会が掲載されていた。

その頃は、言葉こそ「震災」だが原発事故の衝撃が大きくて、岡田は3.11を「愚民をだまくらかして選良が安眠をむさぼる飽食はもう無理だ」という神の鉄槌と受け止めていたんだと思う。

津波の被害とか、交通網の分断とか、日本はやっぱり地面の下が常に不安定なんだなあ、とか、色々考えなあかんことがあるなかで、あれほど敏速に反応すると、やっぱりお前は今まで「愚民をだまくらかす」意識でやってたのか、とバレちゃった感じがしたわけですけれども、ワルが何かを反省するきっかけになったのであれば、結構なことではあったのかもしれない。

彼のその後の仕事は、「自力更生」っぽい感じがありますしね。

人工物が自然を模倣するには限界があるだろうし、それは神を恐れぬ行為ではないか、と宗教的な議論もあるでしょうけど、自浄作用のある生態系っぽく世の中を回していくことができたほうが少なく悪いだろう、くらいのことは言えるように思う。

「決められる政治」というのが、実は外から何か言われたときに即答する、レスポンスが早い、ということに過ぎなくて、居酒屋のアルバイトの体育会系な俊敏さの話だったら、やっぱりガッカリじゃないですか。「決める」というのは頭で考えるってことであって、身体の反応速度の話じゃないはずですもんね。

「みなさまのオーケストラ」が、はっきりくっきり「大きな音」で、わかりやすく音楽をお伝えします、という路線は、まあそれで今はいいんだろうけれど、はっきりくっきりわかりやすく、のところは、セルフ・クレンジングの機構が入っていないと続かないと思う。

「音楽の友」という雑誌はねえ、「地方」については、現場で何が行われているのか、見て見ぬふり、をしていることが他にもあるし、まあ、あの程度のモラルしかないと思います。雑誌やライターが自力でクレンジングする可能性は、まずないと思ったほうがいいでしょう。

[だいたい、雑誌発売前に批評をブログに出す行為を、なんで東条だけに認めとるねん、これも、おかしな話ですからね。編集部の立場は、とにかく誌面が埋まってつぶれなければそれでいい、くらいに激弱なんだと思います。ちなみに、12月号の校了はまだのはずだから、どうにかしたいと思えばできたはずだが、たぶん、何もしないで、ブログに出てるのとおんなじ文章が誌面にめでたく載ることでしょう。]

ということで、手番はこっちに回ってくる。さて、どうなるのかねえ。

何度も書くけど、私はそういう「兼任」はよくないと思ったから自分で降りた。そしてそれは当たり前のことであって、世の中は、黙って自分で自分のケツを拭く人のほうが圧倒的に多いに決まってる。それができないダラシナサによって目立つ、というのは、まあ、普通に考えたら恥ずかしいことです。他人の居眠りを弱い者イジメみたいに指摘してる場合じゃないよ。