渋谷の女子大生とペテルブルクの踊り子

劇場通り (クラシックス・オン・ダンス)

劇場通り (クラシックス・オン・ダンス)

鈴木涼美の本はカルサーヴィナの回想録の隣に置くことに決めた。

舞踊研究家であるお父様に敬意を表して、というのもあるけれど、「私たちの街ではそこまでが地続きなのだ」というスタンスで行われた「参与観察」の記録は、パリのシャトレ座やロンドンのアルハンブラ劇場までが地続きであるような劇場通りの踊り子さんの達意の自分語りと並べてこそ浮かばれる気がした。

「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか

「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか

セックス・ワークをめぐる従来の議論には「私たち」が出てこない、という違和感が本書を支えているわけだが、饒舌な語りを獲得していくプロセスや、「彼女たち」の「業務」をサポートする周囲の人たちの動きは、シロウトがいかにしてパフォーマーになっていくか、という話にそっくりな一面がある。著者は、「現場」でしばしば耳にする「エンタメ」という言葉を決して信じないのだけれど、読んでいると、著者の見積もりよりも遙かに広範に「エンタメ」から流入したものが「現場」にあるように見える。

いかにシロウトをプロとして覚醒させずにパフォーマンスを維持するか。シロウトっぽさこそがリアルなんだ、という演技術or演出法は、それこそ「私たちの街」にあふれている。そういうことのような気がします。

そしてそれは、ひょっとすると100年前に、「見世物小屋のいかがわしさ」に覚醒させることなくロシア皇帝のバレリーナをパリやロンドンの舞台に乗せようとしたディアギレフの興行術と、ちょうど正反対なのかもしれない。

どこまで行ってもシロウトの意識であり続ける人の手記と、どこまでいってもプロである人の回想録。

そしてその際、シロウトな意識の人の外側には、当人の意識と関係なく周囲が彼女を東大教授の娘と見ている環境があったのかもしれないし、当人がプロ中のプロである踊り子さんといえども、パリやロンドンへ行けば、オリエンタルな曲芸師と見られてしまう力学があったのだろうと思う。

一方が社会学研究の体裁で本になり、他方が回想文学として本にまとまっているのは、そのようにできる条件がこの人たちにはあった、という以上のことではなさそうな気がする。

[とはいえ、「参与観察」とか「会話分析」とか、人類学の手法が手記を綴る上での道具(しかも偽装工作のための)に成り下がってしまっているのはどうしたことか。これは別にちゃんと考えたい。社会学は大都会の正義だが、田舎暮らしの人類学は、もはや、使えそうなものを好き勝手に持っていかれちゃう限界集落、キッチュで緩い着ぐるみ・コスプレのアイテムに過ぎないのか? それはおそらくグローバル・スタンダートな態度ではないと思う(笑)。デュルケム先生に怒られそう。そこのところだけは、指導教員の判断をすぐには肯定できそうにない。]