変な日本語

ある世代以上の人たちは、作文教育(私の思いのたけを綴る)とビジネス文書(客観性重視)を過剰に峻別して育ったせいなのか、人目にふれる文章に「私」という主語を出すことを極端に恐れる傾向があるように思う。(たとえば大久保賢もこの病気を患っている。まだ十分にお若いのに内憂外患、お見舞い申し上げます。)

その結果、こういう変な文章ができあがる。

山口毅さんは二度目のご登場。リピートのお声がかかるというのは、要するに好評だったから。音楽家と同じ。
本番直後は興奮も有り、賛辞が飛び交うが、本当にどうだったかはリピートが来るかどうかで分かる。それが続く人が現役で、ずっと続いた人が巨匠。

http://yohirai.asablo.jp/blog/

「好評」とか「リピートが来る」ということをまるで自然現象のように語る奇怪な日本語である。視聴者に好評だったのか、それとも、番組制作者(つまりはあなた)がいいと思ったのか、もし後者なら、こんな日本語になるのはおかしい。「オレがいいと思ったから、異例だが、もう一回きてもらうことにした」と書くべきであろう。

おそらくそのように書かないのは、そんな風に書いてしまうと後半と齟齬を来すからであろう。

本番直後は興奮も有り、賛辞が飛び交うが、本当にどうだったかは「プロデュサーがその人をもう一回起用するかどうか」で分かる。「プロデューサーに呼ばれ続ける人」が現役で、ずっと続いた人が巨匠。

そう思っていたとしても、はっきり書いちゃったら、お前は何様?ってことになるもんね。

「編集の時代、プロデュースの時代」とかもてはやされても、本人たちの意識は所詮こんなもの。

結局、引用した文章は、ソフトな恫喝だよね。オレに気に入られないと、アーチストとして将来はないよ、みたいな。

仕掛け人が日の当たるところへ出てくるのであれば、あなたの考え=みんなの考え、という風な幻想を捨てていただきたい、あなたはあなた、わたしはわたし、発言や責任の主語を切り分けてください。

(「二期会のこの人が来てくれると、私は楽で助かるんです」と正直に書くのは、「私」が二期会の人の営業力に凋落されているということだから、あまり認めたくないのかもしれないが……。)

あと、

本番直後は興奮も有り、賛辞が飛び交うが、本当にどうだったかはリピートが来るかどうかで分かる。それが続く人が現役で、ずっと続いた人が巨匠。

という文章だが、お座敷がかかり続けるかどうか、というのは「人気」の話に過ぎないのだから、「巨匠」という言葉は不適切でしょう。

あなた(たち)=興行関係者の間に、人気者を「巨匠」と持ち上げる習慣があるのを知らないわけではないが、そのような業界用語をそのまま表の世界へ持ち出されても困ってしまう。