上のエントリーの教訓

「ソーシャル」でビジネス・マインデッドな人が顔をさらして作文せねばならない機会が増えているようだから、ビジネス文書の書き方とは別に、顔の見える仕事の文章の書き方教室には、結構な需要があるんじゃないか。

どこぞの音楽ホールの広報とか、全国から仕事をとってくる営業力だけはある自称評論家とか、そういう自己顕示欲は強いけれどもスキルを身につけずにここまで来てしまっている人に、不毛な摩擦が生じないような文章の書き方を教えてあげるコンサル業があってもいいんじゃないかしら。

穏便に済ます、という意味じゃない。そういう書き方は、あなたたちの得意技だ。言うときは言う、言っちゃいけないことは言わない、その繊細な仕分けは日々変化しているのに対応できていないんじゃないか、ということだ。

人文が大学での居場所を失いつつあるんだったら、再就職先としていいんじゃないか(笑)。

金勘定はからきしダメでも、こういうことに関しては、人文の人は敏感です。大学の人文なんて、イジメて搾り取ろうとしても大した金にはなりゃしません。もともと零細な個人営業の集合体なんですから……。むしろ、味方につけちゃったほうが得ですよ。それがエコノミーでしょう。

この状況をどういう構成・文体・語法で文章として切り取るか。写真を撮るのと一緒で、歴然と上手い下手、適切不適切があるからね。

あと、音楽会の宣伝やレポートが成功するかどうかは、情報量だけじゃないのに、そこがわかってない人が多い。

いっつも同じフォーマットだったり、同じ観点からの作文だったりすると、出てくる固有名詞や形容詞が変わっても、全部同じに見えてしまう。今度は頑張って書こうと思って、いくら詳しく入念に仕上げても、ウザいだけになっちゃう。

(東条さん、最近の「書きすぎ」で、そのあたりのマンネリにも自覚があるんじゃないんですか? イベントを文章で切り取るときの語りのパターンが少なすぎるのが「書く人」としては致命的に思うのだけれど。)

[一方で、上手な人はそのあたりホントに上手ですよね。迷惑かけたくないから名前は出さないけれど。]

[追記:あと、「音楽の友」がやっているような全国の主要演奏会すべてのレビュー、みたいな誌面のときは、逆に変な抜け駆けを許さないでフォーマットが揃っていないと意味が薄れる。で、私はそう考えているから、極力、ああいう文章のときだけは定型的に書くのだけれど、編集の力が弱くなって、いつでもどこでも「個性的な私」であり続けたいという、団塊の歪んだ心性のなれの果てみたいのに押されてしまうと、そこがガラガラと崩れるようですね。あれは嘆かわしいことだと思う。そういうのをこそ、TPOをわきまえない、と言うのではないだろうか。TPOを無視するなんて、ビジネスで最もやってはいけないこと、じゃないんかい(笑)。]