外国にもダメな大学教授やバカな批評家やアホな学生はいっぱいいるよ、たぶん > 増田先生

いちおう説明しとくと、

増田聡センセの欧米のCultural Studiesと日本のカルスタは別物になってる、という話は、大学人としてちゃんとせなあかんなあ、という訓示のなかに、ちゃんとした大学人に比べたら、批評なんてクズだ、と言っているかのような含意(オレのいる世界が素晴らしいと思い込むためにor学生をだから頑張れと鼓舞するために、外の世界の出来事であるところの批評をスケープゴートにする、というような「共同体の内向きの論理」)があるから、外の人間、もしくは何らかの形で批評が他人事ではない人間は、読んでいてイラっとするわけだが、

こういう内向きの議論にありがちなこととして、「欧米のCultural Studiesと日本のカルスタは別物だ」というところが、まったくもって、学問的じゃないと思う。

「批評があれば研究は(さほど本質的には)いらない」と言い出しそうなバカな批評家とか、「CSはサブカルチャー研究だ」と勘違いするダメな学者とか、「サブカルと批評的に戯れるのがCSだ」と思って副専攻でCSを取るアホ学生は、たぶん、イギリスや北米にも(いっぱい)いるんじゃないかと思う。いっぱいいるけど、そんなバカ批評家やダメ学者やアホ学生の発言をわざわざ外国に紹介したり、外国でそんな連中に注目する物好きなどいない、というだけのことだろう。

大学人としてシャンとした生き方をしようと改心して、日本が特殊なのかどうかを学問としてまっとうに取り扱おうと思うのであれば、例えば、日本のバカな批評家に相当する存在が外国にもいるのかどうかを調べて(これは「いる」と断言できる、朝比奈隆の欧州遠征に対する現地の批評の8割は「バカ」もしくは「無能な人」が書いているもん)、バカ同士を比較しないとダメでしょう。

同様に、ピーター・ホールと日本のキラキラ大学の講師をいきなり比較するのは学問じゃない。

英国の現代文化研究の下働きをして、事務局の会計係を勤め上げた末に大学のポストを得たけど、さほどの業績はなく、でも実直で学生からは慕われている、とか、そういう人を探し出さないと、日本のキラキラ講師と意味のある比較はできない。

学生気質の比較もそうで、日本の「意識高い系」の留学生が自らの意志で意気揚々と乗り込むような外国の大学の学生と、かつての旧帝大が「植民地」や「天下り先」として便利に利用していた悲しい過去のあるような日本の大学の学生をいきなり比較しても、有益な結果は出ないでしょう。

そしてそれぞれの国内には必ず「国外へ紹介できないバカ」が存在する、という前提に立ってこそ、スーパーグローバルな大衆文化研究なんじゃないかしら。それぞれの国に、「自国を代表するかしこ」がいるのと平行して、「自国のバカ」を調査・研究している学者も各国に何人かずついるはずだから、インターナショナルに連帯したらええんとちゃうの。

世界のアホな学者・評論家・学生を調査するのだ、と思って見直せば、いままでゴミだと思っていた文献が役に立つと気づいたりして文献検索の仕方も変わってくるだろうし、いいんじゃないかと思うけどなあ。

(そのような研究で競争的資金をゲットしようとすると、輪島センセの「カタコトは人類学を組み替える!」みたいにアクロバティックな仕掛けをしないといけなくなって大変そうだが、並の学者があと何十年かの大学人生を送るためのお題としてなら、ちょうどいいんじゃないのかなあ。)