民俗・大衆を形式化しようとすると「無限」問題が発生する(たぶん)

http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/26208208.html

「いい演奏だったね」と言い合っている人に読まれる覚悟なしに批評は書けまい。当たり前だ。

http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/26203724.html

クラシック音楽の古典と前衛、そして民俗音楽の均衡、とのことだが、この「均衡」という表現がダメだと思う。

比較して足し算引き算ができないものの間に「均衡」を言うことはできませんよね。でも、19世紀が発見したフォークロアとか、20世紀が発見した大衆(マス)は、底が抜けており、全体を見通したり数え上げることができないものと観念されている(いた)んじゃないだろうか。

もしも、なんらかの形式化の仮定のもとに、

アレグロ楽想 = 1
カンタービレ旋律 = 2

と置くことができるのであれば、

アレグロ楽想 × 2 = カンタービレ旋律 × 1

という風に「見事な均衡」を達成できるかもしれないけれど(古典楽曲の形式分析はたいていこんな感じの式を作りながら進む)、

民俗や大衆は、音楽形式の上では「無限」の扱いなのだと思う。

そんな考え方が正しいか間違っているか、そこは議論があるだろうけれど、19世紀や20世紀初頭のヨーロッパのインテリ作曲家たちはそう考えた。というより、数学を活性化させた「無限」の問題と同等の課題を発見したと思ったからこそ、彼らは民俗や大衆を「作曲」へ取り込むことに夢中になったんじゃないだろうか。

(同時期の表現主義が指し示しているのかもしれない「無意識」とか、象徴主義風の暗示が「無限」へと底を抜いているのは納得しやすいと思うけれど、民俗や大衆も、音楽形式における意味は同等だと思う。)

無限を抱え込んでいる関数や数列を取り扱ったり、無限にも大小がある、とか、数学はそういうことになっていくじゃないですか。20世紀のインテリ作曲家たちの「頭がいい」感じは、それだと思う。

だから、20世紀の作曲に初等算術風の「均衡」という言葉を使われると違和感がある。

ストラヴィンスキーは、「無限」が特別であることを知っているのに知らんぷりして「有限」と同じように平然と処理して逃げ切った。面白いからいいじゃん。え、勘定が合わないって、そんなの作曲家の仕事じゃないよ、ツケといてよ、オレを誰だと思ってるんだよ、みたいに豪遊を続けるロシア野郎(笑)。

バルトークは、コツコツと数式を組み合わせて、単に何かを証明するのみならず、正しい証明は誰が見ても美しいはずだ、それが作曲だ、と信じているから、どんどん偏屈になった。(ただし、民俗という無限を取り扱っているくせして、「正しさ/美しさ」は普遍的だという市民的公共性を捨てることはなかったので、教育とか劇場とかコンサートとかで結構派手なことをやったし、そういうのも案外好きだった。)

シェーンベルクは、無限を開放するためには新しい領域を切り開くしかない、と言って曠野へ出て行った。

そんな感じじゃないのかな。