司令塔のふわりとしたパス

少し前から学生さんと『ブラスバンドの社会史』を読んでいる。(今年は飛び入りで、普段はやらない枠の授業をいただいたので。)

ブラスバンドの社会史―軍楽隊から歌伴へ (青弓社ライブラリー)

ブラスバンドの社会史―軍楽隊から歌伴へ (青弓社ライブラリー)

読んでいるのは塚原さんが書いた日本の軍楽隊と民間音楽隊の歴史の章だが、この本が出てから10年以上経って、いわゆる「軍国主義」とされてきたものについての各方面からの見直しとか、幕末鼓笛隊とか、「その後の日本の吹奏楽」についての現場に近いところからの研究とか、徐々に出てくるようになって、大阪市音楽団があんなことになっているし、こちらも大栗裕とのつながりで少しずつ情報を集めたりしてから読み直すと、いい位置に付けた本だったんだなあと思う。

(英国の金管バンドとその各地への伝播も、当然ながらちゃんと押さえてありますしね。)

ああ、これが細川周平か、10年のスパンで考えてようやく得心がいった。そんな感想を抱いております。

ブラジルがらみもあって、サッカーの本を、Jとかワールドカップとかが世間の商売になるより前に書いてらっしゃいましたが、司令塔のMFが誰もいないアサッテの方向へふわりとパスを出す、みたいな感じの人なんですね。

なんでそんなとこへ蹴るんだよ、とみんな思うわけですが、必死に走り込んで行くと、手品のように局面が展開したりする。

映画音響論―― 溝口健二映画を聴く

映画音響論―― 溝口健二映画を聴く

で、『映画音響論』サントリー学芸賞問題ですよ(笑)。

あとがきに書いてありますが、細川さんのところで書いた博士論文なんですね。

そしてこのあたりの問題設定は、まったく知らない話じゃない立場で読んだら「お前、どれだけ走らせるねん」となるところを、それでも著者がヘロヘロになりながら走った、ということですよね。

プレイヤーがいい、というより、いいパスが上がった、という感じなわけだ。

で、いいパスが上がってもゴールを決めなきゃだめなんじゃないのサムライ・ジャパン、というのがその先にあるんだと思いますが(笑)、

とりあえずパスが上がった瞬間の周囲のリアクションを見ておりますと、

「長門くん、おめでとう」の声があちこちから上がるのは、MFのパスを味方チームは誰も予想していなくて、今ボールがある場所にごちゃごちゃと群がり、団子になっているように見える。短いパスをつなぐチェーンのひとつになれたらいいや、と思っている感じ(笑)。ラグビーのフォワードがラインを作っているんだったら、それが普通の戦術かもしれないが、サッカーはラグビーと違ってボールを前に出していいんだよ。

で、学芸賞の審査員様は、ボールを持っている敵の選手と味方のゴールを結ぶ直線の途中に壁を作れば、すぐに失点することはあるまい、な態度に見える。(大の男が大事なとこ押さえながら一列に並ぶ、フリーキックでおなじみの光景ですな。「そこ、ちょっと右、それは行き過ぎ」というキーパーの指示で完全な受け身の行動を取るしかない場面。)

でも、よく知らないけど、最近はそんなに大仰な「壁」を作ってもあんまり効果はない、って感じのプレイスタイルになっていたりするんじゃないんですかね。

20世紀のニューメディアの聴覚文化としての分析、という話は、やってみるとモノがでかいので、これから10年はかかると思う。個人技だけでは絶対に無理なので、それぞれの立場で土台からしっかり組み立てないと、あとあと後悔すると思う。

[細川周平さんとは、前にも書きましたがこれまで一度しか会ったことがなくて、歌劇「夫婦善哉」の発表をしたら、笠置シヅ子はどうなのか、という、やっぱりフワリとした感じのパスが上がったから、以来私は、「夫婦善哉」の話で必ず笠置シヅ子に言及する。これがまた、うまくハマる。

服部良一ファミリーの日の丸ジャズ、ということで、このあたりはあっという間にサブカル化、コンテンツ化され、既にひとしきり消費されたようですね。

ブギの女王・笠置シヅ子―心ズキズキワクワクああしんど

ブギの女王・笠置シヅ子―心ズキズキワクワクああしんど

でも、ひょっとすると、この話はまだ先があるかもしれない。

笠置シヅ子は、大阪のオバチャンというキャラだけれども、本当は香川の人でしょう? そして大栗裕に「夫婦善哉」をけしかけた武智鉄二の家は徳島で、今も父の弟の一族が徳島の本家を守っているらしい。また、大栗裕のお父さんは阿波の人だ、という情報があり、脚色の中沢昭二は高知の旧家の出。四国と大阪のつながりは、本当に色々なところにあるのだけれども、普段、あまり主題的に語られないんですよね。

西日本の音楽の勢力分布図のようなものを考えたときに、「九州」はちょっと幅をきかせすぎじゃないかと思う。ロックバンドだけが音楽じゃないだろ、って話だ。

60年代ユースカルチャーの台頭で隠蔽された「四国」問題の再検討。うどんと巡礼だけじゃないだろう、というのがありそうな気がするんですよね。

こういう、ふわりとしたパスはミクロなの、マクロなの(笑)]