取材記事の「相場」を探る

新聞記者が研究室を訪ねてくる、どうしよう……。効果的なパブ記事を書いてもらうためには、何に気をつけたらいいのだろう?

ジャーナリストの取材にどうつきあえばいいのか、お悩みのあなたにもきっと役立つ取材記事の「読み方」をお教えしよう(笑)。

先頃、週刊誌記者が画像に写った窓枠の形状からネトウヨの大物の自宅をつきとめたレポートが出て、ネット上で話題になったが、例えばこの記事に添えられている画像から、皆さんは何を読み取るだろうか?

http://ebravo.jp/archives/14510

本文は、音楽ホールの館長に雑誌の編集長(文末は名前だけだが、彼がこの雑誌の編集長なのは少し調べればすぐわかる)がインタビューした体裁になっているが、写真は演壇にマイク、後ろの壁には西洋人とおぼしき肖像画が並ぶので講演会か何かの写真だと思われる。どうして編集長は、取材現場で写真を撮らなかったのだろう?

(新聞記者は、通常、インタビューや記者会見では必ず現場で写真を撮る。記事で使っても使わなくても必ず撮る。想像だが、そうすることでインタビュイーが確かに取材を受けた、という満足感を得ることができるし、記者にとっては、現場写真は「確かにその人物とこの場所で会った」という証拠になるからだと思う。もしかすると、会社にあとで報告するのに必要だったりすることもあるかもしれない。)

今時の取材環境を考えると、最もあり得る理由は、「現場がなかった」「インタビュアーはインタビュイーと会っていない」というものだろう。

といっても、もちろん、捏造という意味ではまったくないので誤解のないように。直接会わなくても、電話取材というのは昔からある手法だし、最近では質問事項にメールで回答してもらって、そのやりとりをインタビュー風にまとめることもあると聞く。

そしてこの記事の場合は、後者の可能性が高いと思われる。

ポイントはここだ。

加えて『クレド』の“エト・インカルナートゥス”─おそらく新妻のコンスタンツェが歌ったのでしょうけれども─のコロラトゥーラ・ソプラノの美しいソロが絶品です。

ハイフンで括った挿入句。ドイツ語の関係代名詞を思わせる後置きの補足説明を、こんな風に整然と「話す」人はいない。もし、こういう風に話す人がいたとしても、話し言葉の文字起こしで、自分の言葉ではないものにこういうハイフンを挿入する勇気のある編集者は、まずいないと思う。

「」で囲まれた文章が律儀かつ論理的で整然とした(整然としすぎた)文体であることから考えても、取材先の学者のメールの文面をほぼそのまま使ったか、さもなければ、電話取材等の文字起こしをインタビュイーが徹底的に直したか、どちらかだろう。

(あくまで推測だが、編集長(しかも校了直前)の記事だということを考えあわせると、多忙ななか、様々な制約から短期間に最も簡便な取材方法を採用せざるを得ず、メールの文面をそのまま使ったのではないか、と私には思える。)

批判とかでは全くありません。与えられた情報をひとつずつ読み解いていくと、おそらくこれが最も確からしいと思えてくると言っているに過ぎません。そしてこういうシビアな環境でまとめられた記事である可能性を考慮するかしないかで、本文の読み方も変わってくる。記事を「読む」ための準備作業を丁寧にやったに過ぎません。

さて、そしていよいよ本文を読み進めると、地の文章のほうも、広報されている「情報」ではない取材記者自身の言葉がきわめて少ないことに気づく。

地の文は段落ひとつ分しかなく、この段落は5つの文で構成されている[第5文については、[追記]で述べました]。それぞれの文のなかで、広報情報じゃない書き手の言葉は、以下の【】で括った3箇所だけだ。

  • 第1文 ……自主企画で【全国から注目を集めている】……
  • 第2文 昨年からスタートさせて【好評を博している】シリーズが……
  • 第3文 [広報情報のみ]
  • 第4文 モーツァルト・ファンの【好奇心をくすぐる】このシリーズ
  • 第5文 [追記参照]

率直に言って、紋切り型のポジティヴワードではあるが、そのなかで、冒頭に出てくるがゆえに読者の記憶に残りやすい位置に、

【全国から注目を集めている】

が出てくるところが、ちょっと気になる。ホントにそうなんだったら、そこが一番のニュースバリューなんじゃないか? でも、ホントなのか?

東京以外の都市の公演が「全国から注目を集めている」ケースは、それほど多くはないので、なぜそれが可能なのか、ホントだったらみんな詳しく知りたいはずです。STAP細胞が本当にあるんだったら大変だ、と同じくらいの大ニュースです。

で、あそこが知名度が高いのはこういう理由、こっちはこう、という風に、業界では一通りの分析が既になされているように思う。

このケースはどうなのか?

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私の感触では、まさにこの編集長さんのケースがそうであるように、各種「媒体」への売り込み・食い込みに長けていて、メディア上でのプレゼンスがピンポイントで高い、ということなのではないかと思う。行ったことがなかったり、当人に会ったわけではなかったりするのだけれども、「知っているような気にさせる」というのが、この場合の【全国から注目を集めている】の実体かもしれない。

そしてこの仮説に沿って考えると、編集長の署名記事で紹介された、というメディア上の出来事それ自体に意味を見いだそうとする売り込み側と、編集長側の、広報情報+メール取材に2つか3つの褒め言葉、という、書類にポンとハンコを押しておしまい風の応対は、うまくバランスが取れているようにも見えてくる。

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もし、これが当節の「取材」のデフォルト設定なのだとしたら、

新聞記者さんたちが今も行っているように、アポ取りから実際に出向いてのインタビュー、写真撮影、場合によっては掲載前の内容確認……というプロセスは、たとえ、掲載されたコメントが自分の思い通りではなかったとしても、めちゃくちゃ丁寧で厚遇を受けていることになるんじゃないだろうか。

大学の先生な皆様、現在の日本のメディアの取材行為の「市場価格」は、だいたいこんな感じなのだという風にお考えいただくと、自分の受けた扱いがどうだったのか、判断の目安になるんじゃないでしょうか。

編集長直々の取材申し込みだから失礼がないようと考えて、受けた側は館長に話を通して、日本音楽学会の先代の会長でもあらせられるところの館長が丁寧に説明したんだと思うんですよ。でも、それをキャッチするほうの台所事情が慌ただしいと、お決まりの褒め言葉を3つくっつけてできあがりにされてしまう(ことがある)。それが現実だということです。

かしこ。

[追記]

記事の「内容」については、簡単に2点のみ。

このシリーズを企画したのが、いずみホール音楽ディレクターの礒山雅である。音楽学者である礒山はバッハやモーツァルトの研究者として知られ、現在は国立音楽大学招聘教授、大阪音楽大学客員教授も務めている。

インタビュイーがどういう人か、というのは、記事をインタビューの体裁でまとめる場合とっても大切で気を遣うべきところだと思うのだけれど、これはちょっと雑な書き方ではないか。

経緯から言えば、磯山センセは、音楽学者、音楽に関する啓蒙書の書き手として早くからご活躍で、その実績を買われて若くして新設音楽ホールの館長に抜擢され、今日に至るわけです。プロフィールに字数を割くことができない事情があるのだとしたら、せめて、言葉を並べる順序に配慮すべきではなかったか。

具体的には、「も」の使い方が変だと思う。

「音楽ホールの館長が、大学の職「も」務めている」

ではなく、

「こういう職を務めている学者が、音楽ホールの運営「にも」館長として長年尽力している」

と書くのが一般的だろうし、この順序を敢えて逆にするには、それなりの理由が要ると思う。

引用文の書き方では、音楽ホールの館長職が主たる職業で、副業あるいは趣味で研究もやっている人、みたいに見えてしまう。もちろん、そういうディレッタントの教養人にも立派な人はいると思うけれど、磯山センセはそういうケースではないはずです。

私はモーツァルトのピアノ協奏曲を取り上げる際に、ピアニストが指揮をするという形態を望んでいましたので、リフシッツがそれを実現してくれることになりました。

磯山センセが実際にこういう風に言った(書いた)のだろうと思われますが、

 プロデューサーが音楽家に特殊な形態で演奏「させた」

という話法は、お客様へのプレゼンテーションとして考えると、なかなかに微妙ですよね。舞台上に立つプレイヤーよりも、それを背後で操るプロデューサーのほうが偉いのか? 「演奏の最終責任者は目の前のプレイヤーじゃない、この音楽会には、舞台に姿を見せない「陰の支配者」がいるのです」ということになると、演奏会を聴くときの構えも変わってしまいそうです。

対面の取材だったら、ここで、リフシッツにとって「弾き振り」は初めてなのか、前からやっていることなのか、というあたりを質問するところから初めて、本当にこの言い方が紙面に出て大丈夫なのか、しっかり確認しておくべきところだと思う。

「リフシッツにとって弾き振りは初挑戦ですが、私の提案を受けて、是非、と承諾してくれました」

なのか、

「リフシッツはこれまでにも弾き振りで優れた実績を上げているので、今回は是非、ということで彼を抜擢しました」

なのか、

そのあたりの情報があるとないとでニュースバリューが変わってしまう勘所なのに、今回は無加工の生素材がそのまま出ちゃったな、という印象を受けました。

[そして、取材を「受ける」立場であれこれお悩みの皆さん、自分の手持ちの素材が仕上がりの記事でどのように見えるか、そのイメージをおおよそでも持つかどうか、ここは大事なポイントかもしれませんね。

それからメディアの皆様へ。磯山センセの世代はまだそれほどではありませんが、最近の人文学者は、極めつきの名作・名文だけを研究対象にするのではなく、日常の言葉や文化を繊細に調査・分析して、そこから研究を組み立てるようになっています。皆さんが書いた文章や活動が、いまでは、あっという間に「研究」されてしまいます。なかでも、コンピュータのネットワーク上での情報流通・コミュニケーションは、多くの学者が注目する「最前線」です。

あなたが「発信」した言葉は、ただちに、シェークスピアや夏目漱石を精読するのと同じ手つきで「解読」されると思っていただいたほうがいい。

今はそういう世の中なので、学者を取材「する」ときは、取材するあなたが同時に逆に取材「されている」ことをお忘れなく!]