事件性? キミに正義の味方ぶる権利はないと思うよ

http://d.hatena.ne.jp/smasuda/20141125

内容についての疑問としては、通常この種の社会問題をめぐる学術的な議論は「起きたこと」の検証という形を取るわけだが、今回の件は、このままでは取り返しの付かない「事件」として何かが「起きてしまう」ことが予測できる段階で、作者が「降りた」ケースですよね。事件を未然に作者自らが防いだ、防ごうとしたわけです。

にもかかわらず、これは既に立派な「事件」なのだ、と言うためには、この出来事の「事件性」をワークショップの企画者自身が自らの責任でまず立証しなければならない。つまり、起きたことの検証ではなく、何かが起きているという告発、という形になる。そんなアクティヴなことを学会でやるのでしょうか? 新垣さんの真相告白のきっかけになったと伝えられている義手の女の子の気持ちとか、そういうのはどうなるのでしょう。二次被害じゃないのか。(もう「N次」のNは大文字か小文字か、とか、そんな悠長な話じゃないよ。)

[どうやら増田先生は、あなたにとって鼻持ちならない存在であると思しき「クラシック音楽関係者」を告発したいようだが、何度も言うように、この騒動の「事件性」を本気で立証しようとするのであれば、これまでの報道に一切でてきていない出版社の関与が鍵になるはずです。つまり、表に出ている音楽家(たち)を踊らせた仕掛け人は誰だったのか、ということです。]

http://d.hatena.ne.jp/smasuda/20141125

上のリンク先のワークショップの趣旨説明は、何の躊躇もなく「事件」の語を連発していますが、これでは勇み足だし、作者の意志を無視して、これは「事件」だと決めつけたところからいきなり議論をスタートするのだとしたら、何の権利があってそんなことをあなたたちはやれるのか、という疑問が沸く。場合によっては、そういうことを一方的に、当事者の尊厳を踏みにじるかたちでやれば、いわゆる「訴訟リスク」が生じますよね。いいのでしょうか?

一方、起きえたはずのことを未然に防止した、という作者サイドの意志を尊重した場合には、作者が未然に事件性を防止した案件が、ワークショップの趣旨で述べられているような一般性のある「問題」を検討する際の適切な素材となりうるか、という疑問が沸く。予定される一般的な「問題」を論じるときに、他に適切な素材はなかったのか、企画者の問題設定の精度が問われるのではないでしょうか。

どの道を選ぶのだろう。

どこへ向かうにしても、「なんだか荒っぽいことをやる学会だなあ」という印象はぬぐえないと思うけれど……。(そしてその「荒っぽさ」は、なるほど、これまでの増田先生の、常にヤバイところをギリギリセーフで乗り切ってきた人生の集大成なのかもしれないけれど、極悪非道をそれでもやると決意する人間に特有の緊張感なしに、言葉が妙に調子よく流れるところが気になるのだが……。ただの無神経なバカなんじゃないかと。)