……

[追記あり]

「ぶつかり稽古は痛いなあ」とか、「こんなに太っちゃたら、着られる服が限られちゃうよ」とか、「どうしてちょんまげを結わないといけないのだろう」とか、そういう素朴な疑問で頭がいっぱいのズブのシロウトが5日後に大相撲の本場所で幕内力士と対戦する。

そういう乱暴なシナリオで客が入るのだろうか。

周防監督のお相撲映画が昔あったが、この手の設定の娯楽作品は色々手を変え品を変え作られ続けているように思う。エンタメとして成立するか否か、ゲーム・バランスが大事だよね。

しかし、そもそも学会って、そんなんを上映する場所なんやろか。

「その通り」

とみんなの同意を得ることに賭けたのだから、だったらやればいいと思うけれど、

だとしても、別に「誰かにやらされてる」わけじゃなく、自ら進んでそうしているのだから、他人の知ったこっちゃない。

(と、次のような愚痴をつぶやきながら学会でのプレゼンの準備をしている人に言いたい。[←宛先指定])

まじめなことをゆうてる場で茶化す人は怒られたり時にはクビになったりするのに、冗談言い合ってる場でまじめなこという人は場を白けさせても怒られることがない。それは不公平なのでまじめな人も鞭打ちの刑になればいいとおもいます。というかまじめなこと言いますけどその非対称こそが「権力」だよね

音楽研究なんてしたことないだろうし五線譜も高校以来見てないだろう人が、音楽実践を対象にする記述に対して必ず「音楽の研究なんだから五線譜ないとダメよね!」と言う現象に名前を付けたい。

これらの愚痴は、「ほんとにそうだよね」というより、「まだそんなところでぐずぐずしてたの? 今までほんとに怠けてたんだな」と呆れる。

映画「舞妓はレディ」 ミュージカル・ソングス&サウンドトラック・コレクション

映画「舞妓はレディ」 ミュージカル・ソングス&サウンドトラック・コレクション

周防正行のこの路線は、その後ずいぶん進化しているようなのだが……。

[追記]

楽譜を入手したのであれば、新垣氏の「告白」以後の、いわゆる「シリアス系」な人たちから出た多種多様なポジショントークを楽譜に照らして検証する作業に具体的に入ることができる。

「あれはシロウトの頼まれ仕事のお手軽なツギハギだ」とか、「プロの技を感じさせる仕事だ」とか、「私レヴェルの作曲家ならチョチョイのチョイだ」とか色々言われた。曲が何に似ているか、どういう様式が入っているか、ということについても、印象論でコラール、マーラー、ペンデレツキなど、様々な名前が出た。

楽譜を分析したら、改めてどういうことが言えるか。楽譜がこうなっているにもかかわらずAさん、Bさんがこういう風に言ったのはどういうことだったのか、等々、検証すべき項目は多岐にわたる。

STAPのときみたいに数ヶ月で問題の核心に肉迫するためには、専門的なスキルを持つ者がよってたかって集中してやらないと無理だろうが、こういう作業は、突貫工事になればなるほどミスや見落としも増える。

大栗裕の「大阪俗謡による幻想曲」という小さな作品について、楽譜と演奏と30年間に書かれた文章を可能な限り集めて整理する作業を進めつつある私の感触では、この作業を本気でやりはじめると年単位の研究になると思う。(吉松隆氏、イトケン氏その他のこれまでの作品も、全部関連資料として調べ上げる前提での話。)

しかも今回の作品は、多様な様式を意図的に混ぜ合わせるように「指示」されて書かれたことがわかっているのだから、まず、用いられている要素に分解して、それぞれの性質を個別に調べて、そのうえで、それらがどのように組み合わされているのか、構成法を見極めなければならない。作品は長いし、要素数は多いから、この作業だけでも膨大です。

どう考えても、この週末までに増田聡(←この分野のスキルはシロウト)がどうにかできる案件ではない。(暫定的な概観であれば、事前に誰かに依頼して今回のワークショップに間に合わせることができたかもしれないけれど、さすがにもう手遅れだよねえ。)

そしてこういう指摘は、「まじめ」にやるしかない。権力とかなんとか、言うに事欠いてわけわからんことを口走る幼児(精神的に)の相手をしている場合じゃない。

[追記2]

ついでに念のために言っておくが、楽譜を読まずに、読めずに、「専門家の意見に影響を受けた」発言があったとしたら、そういう「影響」を測るのは、調査の順序として、上で述べたような検証の次の段階の話にならざるを得ないよね。

手間のかかる話だが、でも、それが「科学」だよね。

そして音楽(をめぐる人間模様)を「科学」しちゃいけない理由はないよね。それがホントの「言説分析」じゃないの?

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この件をどのように「政治決着」してしまうのか、それは当事者が考えればいいことだし、当面、私はそこに興味はない。

しかしいずれにせよ、今いきなり仰々しく発表できる「発見」があるわけではないことは、率直に認めた上で先へ進むべきではないか。

できるのは、何が必要と我々は考えるのか、という「宣言」くらいなんじゃないか。

(そしてこれはしかし、宣言の乱発はつまらん、だから近頃の学会は、という次の議論になるわけだが。)