怨恨から下克上へ

音楽関係の学会で、最近、50代以上で、大学ではその分野の「先生」を続けているのに学会を脱退する人が何人もいる、と聞いた。どうやら、選挙で役員になるのが嫌だから、ということらしい。

30代40代で苦労して大学の専任になったら、学内の事務に加えて学会の仕事がその人たちに集中する。その背景には、こういう「使えない半老人」の存在があるようだ。

(大学の先生を辞めたわけじゃないから、学内では相変わらずその人たちと顔を合わせなきゃいけないわけで、そら、30代40代にとっては、理不尽極まりない環境だね。谷村晃がそういう弟子を力業で量産してすいません、と、この話を知り、少しだけ胸が痛んだ。)

[次の2つの段落を一部書き直しました。]

楽譜は、いくらそこに憎しみをぶつけても、究極的にはモノなので、何の反応も返ってこない。虚しいことである。(後ろめたいと仏像が実体化してしまう「うしろメタファー」(クドカン)みたいなものだ。)

何をぶつけられても反応できない「モノ」に怨恨をぶつけるのは不当であると言わざるを得ない。

怨恨は、どうしてもぶつけたいなら、ヒトにぶつけたほうがいい。

シリーズ「日本の音楽人類学を問い直す」

ということで、

「創られた「探検」神話 - 現場主義を越えて」

とか、

「フィールドワーク・マネジメント - 地域研究の経済構造の検証」

とか、

「エスノロジーとジェンダー - フィールドワーカーの性倫理を考える」

とかぶち上げて、サボタージュで当事者が学会から退会したら、すかさず、次から次へと欠席裁判を展開する(表面上は、あくまで、マジメな学問上の議論として)。

で、そのような「先生たち」の学問上の存在感を限りなくゼロへと追いやってしまう。

溜飲を下げるプロレスをやるとしたら、これじゃないか。

(純然たる「煽り」です。でも、阪大音楽学の谷村・山口の「妖怪的」な部分を継承して、飲み会の場で若い衆を手なずけながら毒を流した源は、そのあたりでしょう。患部にメスを入れる好機ではないか。)