資料提供者への態度

増田聡先生の手元に佐村河内/新垣氏の作曲した作品の総譜の「写し」(と増田先生は呼んでいる)があるらしい。

当然、正当な手段で入手したのでしょうが(正当な手段で入手したわけではない「写し」を用いて研究を進めるのは極めて異例であり、今回の使用がそのような異例な行為を正当化する事案だとは思われませんから)、

だとすれば、「写し」を入手する際に総譜の作成者and/or所有者に、利用目的を告げて、許諾を得ているはずだ。

つまり、口頭であれ書面であれ、しかじかの目的で利用する(それ以外の不当な扱いはしない)と自らの責任で約束したと推測される。

総譜の「写し」が手元にあることを公表する第一報が、印鑑の話であったり、楽譜を扱うだけが研究じゃないとふてくされてみせる(しかも他人の口を借りた狡猾な手法によって)、というのは、資料提供者を不安にさせるに十分に非常識な「資料活用法」だと思うのだが、大丈夫なのか。

貴重資料を私人間で貸し借りして、それをもとに研究や調査を進めるのは特別な注意を要する。取り扱いに落ち度があれば、最悪の場合は資料の返却を求められたり、資料の使用停止を通告される場合もあり得ると覚悟して、その前提で最善を尽くす。それは、研究者のイロハだと思うのだが、彼は自分が今、手元に何を預かっているか、わかっているのだろうか。

(取り扱いに慎重を要するからこそ、通常、貴重資料を扱う研究では、それをどう活用するか、見通しがはっきり立って責任ある発言・行動ができる段階になってから情報公開するのが一般的なのだが……。そしてこれは、学者だけの話ではなく、ジャーナリストの取材活動等でも同じことだと思うのだが。)

[この文章は、増田先生個人に対するというよりも、せっかくの機会なので、一点物の貴重資料を用いた研究はこういうものだ、ということを、主に公刊された書物や楽譜や商品を用いて研究していらっしゃる方々にわかっていただくきっかけになるかもしれないと考えて書きました。]

[また、今回は残念ながら「写し」しか手元にないそうですが、納品を前提に作成された手書き総譜がどのような佇まいをしているか、実際にご覧になれば、それを自分が預かることの重みはすぐにわかるはずです。作曲家自身がなんらかの印をつける場合もあるかもしれませんし、博物館等であれば所蔵印を押します。佐村河内氏が印鑑を表紙に押したのは、彼なりに、納品された総譜の佇まいに敬意を表したとは考えられないでしょうか。

事実、この交響曲の作曲は、新垣隆氏にとって、膨大なエネルギーを注いだ佐村河内氏との「勝負」だったと伝えられているわけですから、完成した総譜は、半端じゃない面構えだと想像しても的外れではないでしょう。

交響曲の手書き総譜とはどのような「もの」なのか、それと正対することをどこまでも拒む先生の姿勢が、一連のご発言と連動しすぎていて不安です。]

曲がった家を作るわけ

曲がった家を作るわけ

高校時代や芸大時代の「総譜を書く」ことをめぐるいくつかのエピソードは、色々参考になると思うので、時間があれば一読をお勧めしたいところですが、もうそんな余裕はないでしょうかね……。