課題と条件

あと、執筆条件のユニークさばかりが話題になって、肝心の課題が何であったか、というのがどこかへ飛んでしまうのはいかがなものか。

レポートの課題は、

「『佐村河内事件に思う』という題名を付し、この題名に即した内容のレポートを作成せよ」

だったんでしょ。佐村河内は、またしても踏み台なのか。誰かちゃんとケアしてるのかなあ、彼とその家族のこと……。

世間には「他人の言葉」しか流通し得ず、当事者の肉声、とかは、もはや、不要なのか。

そんな思想は、むしろ猛スピードで時代を逆走しているような気がするのだが。

せめて、佐村河内について100近い件数のレポートを読んだと思しき出題者が何か言えないものなのか。

(万が一、「コピペ」のやり方、ではなく、佐村河内氏をめぐる主張にこそ見るべきものがあるような、そういう答案があったとしても、今度は特殊な執筆条件が邪魔をして、その答案をストレートに「引用」するのは難しくなりそうだが……。そしてそれは、面白いというより、それこそ、言葉を失わせる理不尽であるような気がするのだが……。

だって、例えば誰かが関係者に直接聞き取り調査をして、コメントを取ってそれをレポートに挿入しようとしても、その言葉はどこにもまだ発表されていないので、今回の執筆条件を満たさず「使用不可」になるわけですよね。

[ちなみに、日本語版ウィキペディアの「独自研究禁止」条項も、同種のシュールな理不尽に研究者を陥れる罠であることが知られているわけだが……。]

「概して、コピペが巧みな答案ほど、論旨も優れている」という出題者教員さんの述懐を信じるならば、なおさらに、なにか、とても不幸な状況が作り出されるレポート課題であったことになりはしまいか。

そのレポート課題は、まるで漸近線のように「何か」に限りなく接近することができるけれども、決定的に重要な言葉を書くことだけは不可能なわけですよね。その究極の寸止め感はどうなのだろう。)