これは、
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1502/16/news096.html
これと似ている。
ダイアログ・イン・ザ・ダーク(Dialogue in the Dark)とは、日常生活のさまざまな事柄を暗闇の空間で、聴覚や触覚など、視覚以外の感覚を使って体験するエンターテインメント形式のワークショップ。「DID」と略称されている。
ダイアログ・イン・ザ・ダーク - Wikipedia
何が似ているかというと、通常は「ある」とされている属性、もしくは、「ある」のが常態であるとされる属性(作文であれば「私の言葉」、暗闇ワークショップであれば「視覚」)を人工的に欠落させる実験だということ。
そしてこのような、「人工欠落実験」全般に対して、私は、
「そもそも、「ある」が常態である」というのは、何とも気楽で贅沢なことだよなあ、そして、「ある」はずのものをなくしてみよう、という発想は、贅沢の上塗りなのだろうなあ
という感想を抱く。
原理的な疑問として、
特定の属性が「ある」かもしれないし「ない」かもしれない状態を丸ごと肯定する、という認識へ至らない態度は、およそ存在論として不徹底で、怠惰なのではなかろうか
というのが私の意見なのだが、かような実験は、
人工的な、敢えて、であったり、仮に、であるにせよ、「あるはずのものがない」という倒錯を受け入れることなしにはゲームが動き出さない
というところに、方法上の限界があるんじゃないか、ということだ。
「あるはずのものがない」という倒錯した認識を受け入れる過程で、人は、どのようなイデオロギーを装填することになるか。そこは、相当深刻な問題であると私は考える。
現実の「闇」は、それにもかかわらず何かが見えてしまうかもしれないし、「見える」とは違う仕方で何かが感知されたり、されなかったりする状態としてそこにある。
「書かかれた文字の並び」は、なるほど、すべてがいつかどこかで既に書かれてしまっているかもしれないし、それにもかかわらず「私の言葉」が含まれているかもしれないし、そんなことはないかもしれない。
そのような「闇」を、敢えて、であれ、仮に、であれ、「視覚の欠落した状態」と表象したり、「書かれた文字の並び」を「私が含まれない100%他人の言葉」と表象するのは、何かとても重大な決断、踏み越え、抽象化ないし単純化ではないかと思うし、そこで何が決断され、踏み越えられ、抽象化ないし単純化されたのかを見極めることなしに生きていくことができるというのは、どういうことなのだろう、と思うのです。
そしておそらく、そのような戸惑いが妄言やオカルトの側へカウントされたとき、世の中は何かとても不幸な方向へ動いている。
すくなくとも、私はそのような種類の贅沢には近づくまい、というのを身上として生きております。
たぶん、「あるはずのものがない」という論法は、哲学でいえば、デカルトやヒューム(の通俗的要約)のところで止まっているんじゃないか、という気がする。