ドイツの音楽学者の歌曲史・歌曲論を読んでいると、シューベルト以前・ゲーテ時代の Gesellschaftslied の sangbar (歌いやすい)という理念・価値(音域が狭くリズム等が単純な有節形式)は natürlich と言い換え可能と見られているようで、さらにこれを volkstümlich(民衆的)と言ってしまうと、もうヘルダーまであと一歩、というか、これこそヘルダーだ、ということになると思うのだけれど、
だとすると、sangbar という理念・価値は、人声の自然、つまり、人間の声は人間に備わった「内なる自然」である、という世界観を含意しているのかな。
一方で、ドイツの歌唱をイタリアの歌唱と対比・区別しようとするときに、こちらは主にオペラ(劇場)の歌唱様式の話になると思うのだが、
「ドイツの sangbar / イタリアの bel(lo)」
という図式があって、この対立図式は
「イタリアの bel canto は美しいけれど人工的だ」
という言い方と結合してしまうと、イタリアの歌唱芸術は声に無理のない唱法を理想としていたはずなのに、ドイツのオペラ論がねじ曲げて批判していることになりそう。
美や自然の話は、声が絡むと紛糾しそうですね。
(ロッシーニ信奉者のヘーゲルは、そんな国粋主義的な言い方に染まる前の価値観の持ち主で、ウェーバーの「魔弾の射手」などの美しからざるドイツ・オペラに批判的だったと聞きますが、そのあたりも絡めて、上手い説明が新たに見いだされたのだとしたら興味深い……。)