「割り切り」の20世紀へのノスタルジー

合理性 rationality とは高度な計算能力のことである、という信仰が20世紀に北米を中心に広がったという説があるらしい。

その基本要素が「割り切り」ですな。

どんどん割り切っていった先にビッグデータのアナリシスの大伽藍が開ける、と。

一方で、暴力の語を物理的な強制力・拘束力の行使の意味で使用する文化というのがあって、「戦争」なるものをその極大値と設定し、これを肯定もしくは容認するのが保守、拒否するのがリベラルである、ということになっているわけだが、

(右翼と左翼は、どちらもイデオロギーに照らして力の行使を肯定もしくは容認することがあるから、この観点では左右のイデオロギー対立は視界に直接的には浮上しないように思う)

でも、割り切り行為を例外や留保なしに行使すると、あら不思議、物理的な力を行使するまでもなく、あっさり世の中に何かを強制したり、人を拘束したりすることができてしまう。

たぶんこれが、総力戦が不可能になってしまった「アウシュヴィッツ以後/ヒロシマ以後」の主要な「戦い方」であって、どこの国も、「青い戦闘員」を戦場に送り出すかわりに、オフィスの「白い戦闘員」に経済戦争や情報戦争をやらせた(今もやらせている)わけですな。冷たい戦争は、ネオリベと秘密警察の死闘に帰着する、と。

コンピュータで遠くと瞬時につながったときに、ここでは「割り切り」の「力」を誰もが存分に発揮できると狂喜するのは、そもそもコンピュータの効率的なネットワーク形成自体が北米の軍事技術として開発されたわけで、20世紀後半を永続させたい退行と郷愁が基底にありそうな気がする。ネット上を今も飛び交う「気の利いた割り切り」発言は、20世紀後半の「白い戦闘員」とその残党によるカジュアル化したテロル。コンピュータネットワークに棲みついた怨霊みたいなものかもしれない。(←掟破りに人文風の感慨で締めてみた。)

でも、21世紀の「経済」や「情報」は、戦争のアナロジーに回収できない可能性に目覚めつつあるような気がするんだよね。テクノクラートさんも、武闘派系のオタクさんも、スピリチュアルな言論人も、落ち着いて周りを見回したほうがいいと思う。

争いのない平和な未来へ向かっている、とか、そういうことではなく、少なくとも、いつまでも「経済」と「情報」が時代の花形・主戦場であり続ける保証はないかもしれない、ということ。盛りを過ぎて、主役の座も降りても存続する領域など、長い歴史のなかで、世の中にはいくらでもあるのだし、降板後だからこそ「いいつきあい」ができる、ということもある。

「経済大国」であるらしい島の「情報」が、昨年は内側から、年が明けると外側から引っかき回されて、島の住民が蜂の巣を突いたようになっているのを見ると、世の中、平行して他にもやることがあろうに、と言いたくなる。