(最初に問題提起した人は善意で真摯に問いかけたのかもしれないし、きっとそうだろうと思うけれど、その問いかけをどういうインフラのなかで行い、それがどのように拡散するか、ということを考えたとき、善意か悪意かということとは別の水準で、何かが発動してしまう、ということだと思うので、以下、それを書く。そしてこれは、村上春樹が、そういうことを知った上で、シレっとそこに乗っかるワルモノなんじゃないか、という疑念を含む。)
お金を出して「発注」してでも批評を書いて欲しい。どうすればいいのか、と情報交換する人たちがいるかと思えば、
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=797216557024995
優雅にこんなことを言う人もいる。
http://www.welluneednt.com/entry/2015/02/13/203600
そして人は、批評って何なのだろう、と悩んだりするわけだが、それはおかしい。
「書いても読まないよオレは」
については、もう、何も言わなくていいんじゃないか。
批評を「書いてもらえない」という状態は、ひょっとすると人工的に解決できるかもしれないが、批評にせよ何にせよ「何も言う気にならない」というのがあり得るわけで……。
村上春樹が言ってるのは、「私は、誰も何も言う気にならないような、そんな小説を書きます」ということで、確かにそんな感じの作品だよね。
むしろ問題は、
「お金を払ってでも、自分たちがやってる公演の批評を書いて下さい!」
と言う人が、本当に「批評を読みたい人」なのか、ということだろう。
もしかすると、個人としては「読みたい人」なのかもしれないけれど、もしかすると、
「私自身は批評を読むつもりなどサラサラない。でも、私の仕事を批評してほしい」
なのかもしれない。そして、そうであったとしても何ら支障なく物事が回っていくところが不幸なのだと思います。
だって、「私自身は批評を読むつもりなどサラサラない。でも、私の仕事を批評してほしい」というのは、たぶん、村上ワールドに帰依するのと同じくらい病んでいると思うもの。
たとえば、ひょっとすると、その種の発注書は、
「あなた様には、人が読みたくなるような批評とそっくりの外見で、なおかつ、誰も読む気にならず、読んでもすぐに内容を忘れてしまうような、そんな公演評を書いていただきたい。面倒な仕事だと思いますので、ギャラはいつもの二倍出します」
の意味を含んでいるかもしれない。
しかもこのように書いた瞬間に、
「それいいですね! 今度から、うちも批評発注の仕様に入れることにします」
と底抜けに明るいレスポンスがどこからともなく飛んできたりして……。
あるいはこういうときに、「やれやれ」というテンプレートが発動するのか。それが、村上春樹の正しい使い方、なのか?