「カプセル化」:出来事を外から制御する20世紀

ライブイベントを段取りして、運営・進行管理する人は、「主催者」と呼ばれるが、現在では、通常、ライブの現場に居合わせるのではなく、「外」にいる。

しかも、

かつては「裏方」などと呼ばれたが、現在では、多くのライブイベントが室内など閉鎖空間で行われることもあり、エントランスでお客様を待ち受けたり、会場内を誘導したり、終わったあとのお見送りをしたり、「裏」というより、むしろ、こういう人たちのほうが「表」に露出して、外部と折衝するインターフェースになっている。だからこその「主催者」なのかもしれないし、だからこそ、「裏方」として見えないところで動くのでは不十分で、これからは、「みんな」で「マネジメント」を堂々と語り合うべき、ということになっているのかもしれない。

でも、繰り返すが、この人たちは、イベントの「現場」にはいない。

「中」で何が起きているか、どうやって把握するのだろう?

出てきたお客さんの顔を見たら、たいていのことはわかる、のだろうか。

綿密に計画を立てて、その通りに実行すれば、「想定外のこと」が起きるはずはない、のだろうか。

ほんとはそうじゃなくて、実際のところ、「中」で何が起きているのか、原理的にわからないからこそ、色々考えちゃう、というところがあるんじゃないか。

「何かやらなきゃ、でも、何を?」というので動く、みたいなことなんだろうと思うわけです。

でも、焦燥とか不安とか、中心が虚ろな状態で進むと、常に暴走の危険があると思うんだよね。そして虚ろさを跳ね返すために、過剰に強気になっちゃったり、怪しげな特効薬に手を出してしまったり、とか。

学校という制度を管理・運営しているのだけれど、教室というイベントの現場に立ち入ることのない職員さん、教育行政の役人さんと、先生たちの関係が、しばしば一触即発になるのと、構造は同じだし、ある意味、原子炉の「中」に触らない状態で発電施設は是か非か、と言っているのも、構図は同じ、かもしれない。(これでは、物の言い方が東浩紀みたいだが。)

何かをブラックボックス化して、最後まで中を開けることなくやり通すゲームは、本当に面白いのか? どこかしら、SF的設定を盲信している子ども、みたいな感じがあるのだけれど……。

(「開けることのできない箱」「開けても中の状態を知り得ない箱」というのは、量子力学でおなじみのメタファーだし、「カプセル化」は、20世紀のイベント制御の有力な方法のひとつだったのかもしれないけれど、ここまで来ると、もはや、笑えないカリカチュアのような気がします。)

[「人類」的には、おそらく、家庭の子育てが、そういうのとは違うモデルを得る有力な手立てなんでしょうね。「子どもは、中身を開けてのぞくことのできないカプセルなのか?」みたいな……。で、20世紀は、「カプセル化」という制御モデルを補完するかのように、「子どもに未来の希望を託す」がさかんに言われた時代だった気がするのだけれど、今は少子化ですからねえ……。仕事が忙しくて子どもを育てていられない人のために、子育て相当の何かを用意してあげないと、ビョーキが治癒しないのではなかろうか。]

https://www.youtube.com/watch?v=zp7E4ScVyQQ&list=PLIyatpUgrCuA2mee6n6j-SoY2iAQSkBe6

町山智浩の宮崎駿論を夜中に見始めちゃったせいでこんなことを考えてしまったに過ぎないわけだが。