図書館を考える(2)

●司書は物知り博士ではない

図書館のアウトソーシング、という経営判断を頭ごなしに批判するのは筋が悪かろう。

第一に、ブラームスが左手編曲したシャコンヌを知らない音大生(ピアノ科だったらなおさら)がおかしいし、第二に、知らないのはしょうがないからレファレンスに相談するのがいいと思うけど、だとしたら、今度は、音楽図書館に適した人材を派遣できない業者に委託しているのがおかしい、ということになる。

図書館を考える(1) - 仕事の日記(はてな)

先日、このように書いたときに、ひとつ書き落とした。

「頭ごなしの図書館アウトソーシング批判」がおかしい第三の理由として、

図書館員(司書)は物知り博士ではない

というのを挙げておきたい。

利用者が「シャコンヌを左手編曲した曲を教えてください」と質問したときに、司書は、「ああ、それはブラームスのこれこれという曲です」と何でも答えることができる音楽物知り博士であることを求められているわけではない。

そういう答えを期待するのであれば、Yahoo!知恵袋かどこかに頼りなさい(笑)。

ものを調べるのは利用者の仕事であって、司書は、一人前に図書館の設備が利用できるように利用者を育てるのが仕事。どこにどういうレファレンス資料があって、ということを教えて、あとはご自身でどんどん調べてくださいね、だ。

だから、ネット文化になぞらえるなら、司書の仕事は「Yahoo!知恵袋」ではなく、2ちゃんねるなら「ググレかす」とか「ソース嫁」の数文字で突き放すところを、丁寧な言葉で順序立てて説明してあげることだ、と言えるかと思う。

●図書館は「叡智の宝物殿」でいいのか?

あと、ここからはやや半可通の聞きかじりになるが、

この種の「図書館が利用者を育てる」という思想は、開架式の開放的な空間設計とあわせて、戦後の北米式の民主主義的・啓蒙的な図書館観と言われているようだ。

それまでの、閉架式で、職員が門番のように利用者と書籍の間に立ちふさがる欧州式(?)の「叡智の宝物殿」から脱却しようというわけで、

日本の公共サービスは色々批判されることがあって、それこそこれが「戦後レジーム」ですから、今は「見直し」されないといけないらしいが、私の印象では、戦後の日本の図書館の「利用者を育てる」路線は、比較的うまくいった事例じゃないかと思うのだが、どうだろう。

今はもう、「門番」タイプの職員がにらみをきかせる図書館は、大学でも公立でも、ほとんどないと思うのだが……。

●司書人材の流動性

そしてそのような図書館職員、司書は、既に前から、専門職としてスキルアップしつつ、「渡り歩いている」ように思う。独立行政法人化のあとどうなったのか、そこはわからないのだが、国立大学時代の付属図書館のレファレンスの職員さんは、北大から阪大へ……、という風に全国を循環していて、それでクオリティを維持していたように見える。

本当に上手くいくのかどうかはわからないが、そういうネットワークとしての特性は維持・尊重しながら民営化、というのは、現状がおおむね上手く回っていただけに、次のステップとして、考えつく人がいたとしても不思議ではないような気がします。

(実際にやろうとすると問題が色々あるかもしれないけれど、少なくとも、「優秀な図書館員はそれぞれの図書館が自前で育てるべきだ」というのは、現実的ではないし、どこかしら往年の、おそらく今は存在しなくなって久しい「叡智の宝物殿」のイメージに引きずられすぎているのではないだろうか?)

●図書館と博物館の間

一方、図書館がこういう風に戦後ずいぶん「風通しが良くなった」のに比べて、資料館(アーカイヴ)のほうは、少なくとも日本では、なんか、今も手探りっぽいですよね。

美術館・博物館のような「もの」を収蔵する施設は、利用者との関係や見せ方が図書館と同様にどんどん北米化している印象だが、

  • 紙の出版物 → 図書館 *copiaを主に扱うわけですな
  • 紙以外の一点物 → 美術館・博物館

の間で、

  • 出版物以外の紙(手書きもあれば印刷物もあり、一点物もあれば複製もある)

の扱いは、制度として弱いんじゃないかという気がします。

世間の注目を浴びうるトピックと紐付けると、民営や公営の「××資料館」が観光誘致にも役立つとか言われちゃって歓迎されて、予算が付いて美術館・博物館に準じて設置できるのかもしれないけれど、すぐには効率的に活用できる目処のない私文書・公文書を組織的に管理するしくみは、あるのかないのかよくわからないし、あったとしても、それを図書館や美術館・博物館並の「公開」まで持っていけているところは少なそうですよね。

●文献と「文化資源」の間

さて、そしてここまで考えると、「楽譜(とりわけ一点もの)」を扱う研究が日本でいまいち栄えないのは、個人や教師や学派の問題というより、インフラが弱いのでしょう。

音楽というのは、学問としてはマイナーだが、それでも、学説史や受容史は図書館で資料を調べたらどうにかやれる。

文化史・社会史・メディア史などの社会科学系は、文献だけでは無理だが、「もの」は美術館・博物館が管理しているので、そっちと両にらみでやればよろしい。今では、近現代の写真・映像資料の収蔵が熱いトピックみたいなので、「映画と音」みたいな話もやりやすかろう。

ここ20年くらい、音楽学は社会科学に接近していると言われるけれど、一方で吉田寛先生の3巻本なんていうのもあって、学説史がやれないわけではない。

そして渡辺裕の「文化資源学」は、結局のところ、図書館と美術館・博物館をスムーズに横断できるように、学問の間取りを考えましょう、と言っているのでしょう、たぶん。

(そういう風にリフォームするから東大に、そして全国の図書館・美術館・博物館にカネを厚く配分してくれ、みたいな含みが裏にはあるのかもしれない。公共事業の活性化案だ。)

でもねえ、音楽(だけではないかもしれないけれど)の周辺には、「出版物以外の紙」が膨大にあるわけですよ。

「文化資源」というかけ声はいいが、受け皿となる既存の施設が存在しない「出版物以外の紙」をどうするつもりなのであろうか。

音楽(に限らないかもしれないけれど)の図書館の効率化で今まっさきに捨てられる可能性があるのは、むしろ、ここだと思うぞ。一般論として。