歌舞伎の看板役者が相次いで50代で死ぬもんだから、松竹の1ヶ月連続昼夜2公演の激務を問題視するおしゃべりがネットで広がりつつあるらしい。
第1段階:入場料が倍になってもいいから、公演回数を減らしてあげて
→ まあ、最初の一声はこう来るやろな。ここで止めておいたら、脱デフレ/高級品を堂々と売りましょう、ということで、時流に乗った感じにもなりそうだ。ところが、おしゃべりな人たちはここで止められないのよ(笑)
第2段階:入場料だけでお金が足りないんだったら、国が補助金を出して、日本の伝統を守ってあげて
→ 国家予算は打ち出の小槌じゃないんやから、発想が安直ちゃうかと思うけど、まあ、こういうこと言う人が出てくるのもしゃあないか。しかし、おしゃべりはさらにヒートアップして暴走する!
第3段階:補助金がないとやっていけないのは他のジャンルも同じこと。洋楽洋舞にも、もっとたくさん補助金をください!
→ いやいやいや。いまは、あんたらの話はしてないから(苦笑しつつ終了、しゃべり場解散)
……てな感じか。
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古典芸能の安定した伝承のために何をすればいいか、専業と兼業の問題だと思うんだよね。
専業でペイするだけの需要があるうちは、それで頑張ればいいけれど、相当の激務ではあるなあ、というのが松竹歌舞伎の現在なんですよね、たぶん。
(「芸能」の範疇からは外れるけれど、文筆業(小説・評論)のシリアス系がジリ貧だ、出版業の未来はどうなる、という話もこれと似ている。)
需要がさらに減ったらどうなるかというと、生業を他に確保した兼業になるんとちゃうやろか。
あとは、素人さんの習い事として商売して、謝礼を集める、とか。
多くの古典芸能やクラシック音楽や絵画などは、
「既にそうなっている」
とも言えるし、江戸時代以前の学問・芸能を考えれば、この国ではもともとそういうもので、専業アーチストが少数ではあれ大衆の支持を得て成立した時代のほうがはるかに短い。
(そして、専業アーチストをむやみに「天才」扱いでありがたがると、偽ベートーヴェンな詐欺師が出てくる。)
芸術・芸能は、職業として切り出すのが難しいし、専業化がベスト・ソリューションなのか、判断が分かれると思うんですよ。
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ちょっと考えただけでも、そういう風に思えることが色々あるなかで、
「専業のほうが兼業より立派である」
と決めつけちゃっていいのかどうか。
兼業したらサヨウナラ、どこまでも専業を守り抜け、という労働観をどこまで維持するのか。別に兼業の人でも、いいものはいい、と認める度量を持つか。
興行主や観客が、ここのところで腹を決めるかどうかによって、考えられる選択肢は随分と違ってくる。
結論を急いだら、間違う気がする。
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たとえば、三津五郎は何よりも舞踊の家で、こっちはちゃんと継承されそうなんでしょ。
歌舞伎役者は芸能人バリューもあるし、なんとかやりようはあるでしょう。
今は、神社やお寺だってしばしば兼業だったりするし、国技であるところのお相撲は、外国人労働者を受け入れて、TPP先取りじゃないですか。柔道は、もっと前から「国際化」しているし……。
「ニッポンの伝統」をすべて補助金入れてでも専業にせよ、なんて言い出したら、その周辺の関連産業まで含めて考えると、計画経済の全体主義みたいなことになるよ。
特定の個人を守るのか、場や形や作法を人から人へと継承するのか、家や集団を絶滅危惧種としての保護するのか、それとも、制度として確立・固定して維持するのか、あるいは、思想や記憶が大事なのか。信念とポリシーの問題は、これもまた140文字のおしゃべりでは片付きそうにないね。