言葉の牢獄

  • (a) 言葉というものは、本質主義から遠く離れて、運用における働きを見なければならない。「作品」という言葉がアカデミックな美学理論とは異なる仕方で流通しているポピュラー音楽ジャーナリズムは、本質主義的な規範を参照しながら「誤用」と判定・批判されるのではなく、価値中立的に調査・分析されねばならない。
  • (b) ところで「人材」という言葉の最近の使い方はおかしい。嘆かわしい。

(a)と(b)を同時に採用すると、一見、ダブルスタンダードに見える。

  • (b') 言葉というものは、本質主義から遠く離れて、運用における働きを見なければならない。「人材」という言葉が高度成長期とは異なる仕方で流通している昨今のマスコミは、言葉の誤用としてではなく、価値中立的に調査・分析されねばならない。

とならないのは何故か、みたいに考えれば、(a)と(b)の見かけの齟齬が見えやすくなろう。

調停案の第1は、

本当は(b')と言わねばならないのだけれども、速報・第一報的に、簡潔・印象的なアフォリズムをとりあえず作ってみた

ということか。この場合は、速報に続いて本編が出る。いずれは新聞データベースか何かに当たって、「人材」という語の用例調査がなされたりするのかもしれぬ。

でも、もうひとつ、発話者の「立ち位置」の問題がありそうだ。

  • (a) は、アカデミズムに異を唱えるゼロ年代の新進ポピュラー音楽論者の立場にうってつけであった
  • (b) は、経済至上主義に異を唱える2010年代半ばの憂国の士という立場にうってつけである((b')の如きヌルい言い方は時局に合わぬ)

この場合は、いわゆるひとつの「ポジショントーク」ということになるので、いつまで待っても、(b)が(b')の様式にまとめ直されることは、おそらくなかろう。

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いや、別にそれがダメだと言いたいわけではないのである。

慌てて反論とか、ふてくされるとか、そいうのはちょっと待っていただければ幸い、なのである。

そうではなく、もっと手前まで考えを巻き戻すことはできまいか。

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言葉は、他我を隔てる衝立のように用いることができる。

「作品」という言葉をめぐる議論が、かつて、アカデミズムの命題を遮断して現場の運用を擁護する衝立として利用されたことがあった。

そして今度は、「人材」という言葉の昨今の運用例への違和感に、雇用者の発想を遮断して被雇用者の尊厳を擁護する衝立として啓発的な意義が見いだされつつあるようだ。

あるいはもっと日常的に、「ここには書かないところで私は汗をかいています」という看板を立てることで、他人の干渉を遮断して、心穏やかな日日を確保する、といった用法もあり得るだろう。

だが、ヒトを守るために言葉を盾にする、ということを続けていると、言葉が疲弊したりしないのだろうか。そして、言葉の疲弊と引き替えにヒトが健やかに生き延びる、というような「取引」が、本当に安全に可能なものなのだろうか。

言葉が疲弊すると、そのことがそのように言葉を運用しているヒトをむしばむ危険はないか。

言葉は本当にヒト(オレ)から自由に着脱可能な「道具」なのであろうか?

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周囲に衝立を隙間なく並べようとすると、そこは一種の牢獄になる。

「ヒトとヒトの間には、これとは別の非言語的な回路があるはずだ」

という対案があって、しかし困ったことに、音楽こそが人類の見いだした最も重要な非言語コミュニケーションである、みたいな楽観論は、音楽を少しでも真剣に勉強すると、すぐに疑わしくなる。果たして音楽はどのようにどの程度「非言語的」なのか、というのは、大問題だ。

だから、この件は一度わきにおいて、

「言葉は本当に衝立なのか」

というところを、わたくしたちは、ちょっと落ち着いて考えたほうがいいんとちゃうんかなあ、と、誰に言うともなく思ったりするのである。